イザヤ 32:11 憂いなき女たちはおののく 安んじている女たちは慌てふためく。衣を脱ぎ、裸になって 腰に粗布をまとえ。
32:12 ぶどう畑のために、胸を打って嘆け 美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために
32:13 茨といらくさに覆われたわが民の畑のために 喜びの家、陽気な町のために。
32:14 宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ 見張りの塔のある砦の丘は とこしえに裸の山となり 野ろばが喜び 家畜の群れが草をはむ所となる。
32:15 ついに、我々の上に 霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり 園は森と見なされる。
32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り 園に正義が住まう。
32:17 正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものは とこしえに安らかな信頼である。
詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。
ガラテヤ 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
人は生きている間は、常に自分の欲望との戦いにさらされる。
自分中心に物事を考え、自分勝手にすべてのことを行おうとする。
そこには、他者の意思など尊重されないことが多いため、争いや敵対が生じ、怒りや憎しみなどにも発展してしまう。
時には自分の利益のために偶像礼拝の類や魔術の類に頼ることもあるだろう。
全ては自分のため、である。
しかし、自分のために生きているのにも関わらず、そこには平安はない。
なぜなら、そこに自分以外の他者の存在が軽んじられているからである。
人は一人では生きていけないし、誰かと共に生きていくことがなければ、途端に滅んでしまう。
しかし、人間を創られた神様は、人がそのように生きることを望んでおられないし、共に生きようとすることではじめて生きる者とされるように創られている。
創世記 2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
ベテル聖書研究では、人間が最初に神に創られた時、神との調和、隣人との調和、そして、自分との調和を意図されたことを学んだが、神と人との調和があってはじめて自分自身との調和も成り立つのだろう。
自分との調和が成り立っていないということは、正しい生き方をしていないということであり、つまり、滅んでいるということである。
私たちは日常の些細なことで怒ったり、争ったり、敵対したりするが、その時、その人は失われている状態と言える。
主なる神様は、そんな滅んだ私たちを救うため、一人子なるイエス様の命を犠牲にして滅びから解放し、真の命ある生き方へと導いて下さったのである。
これほどの愛を受け、これほど大きな犠牲を支払って生きる者とされたのだ。
肉の欲に従って滅びのなかに落ちて行かず、神の霊に従って、まことの命ある人生を歩み続けていきたいものである。