創世記18章1~8節、詩篇30篇、ルカ14章12~14節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

詩篇 30:1  賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。 
30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました 「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって 砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに 何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い 沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ とこしえにあなたに感謝をささげます。

ルカ 14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


創世記の箇所では、アブラハムのところに三人の人が遣わされた時、アブラハムは彼らが彼らを歓迎して家に迎えたことが記されている。
おそらく、アブラハムは、彼らが何者かということは知らないまま、家に招いたのであろう。
しかし、1節には「主が現れた」という風に語られていることもあり、さすがにアブラハムにも、それが主ご自身であると分かったのかもしれない。
いずれにせよ、アブラハムはこの三人を盛大に歓迎してもてなしている。
おそらくそこに、見返りを期待しての接待のようなことは無かっただろう。
ルカの福音書では、食事のもてなしをする時には、親しい人や金持ちだけを招くのではなく、貧しい人や体の不自由な人も招くように勧められている。
それは「分け隔てをするな」ということであろう。
見返りを期待して、接待に差をつけるようなことをするのではなく、純粋に、訪ねてくれた人たちに喜んでもらえるようにせよとのことであろう。
私たち人間の行動は、ともすると、自分の利益となるように考え、行動してしまいがちである。
しかし、食事のもてなしは、来た人に喜んでもらうために行われるものであり、そのあとの見返りを期待して行われるようなもてなしだと、来た人も嬉しくないし、おちおち食事もままならないだろう。
イエス様は、我々に見返りなど期待せず、ただ純粋に与えるお方として、救いと命を与えられた。
もちろん、私たちに喜んでほしいという思いはあってのことであろうけれども、それは見返りではなく、祝福であろう。
イエス様は私たちを祝福したいだけなのだ。
そのために、御自分の命をも惜しまず十字架に捨てられ、私たちに救いと命を与えて下さった。
私たちは、そのようなお方を喜んでお迎えしたいものである。