イザヤ 5:11 災いだ、朝早くから濃い酒をあおり 夜更けまで酒に身を焼かれる者は。
5:12 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず 御手の業を見ようともしない。
5:13 それゆえ、わたしの民はなすすべも 知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。
5:14 それゆえ、陰府は喉を広げ その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も 騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。
5:15 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。
5:16 万軍の主は正義のゆえに高くされ 聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。
5:17 小羊は牧場にいるように草をはみ 肥えた家畜は廃虚で餌を得る。
詩篇 30:1 賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。
30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました 「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって 砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに 何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い 沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ とこしえにあなたに感謝をささげます。
黙示 30:1 3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
3:22 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
電気自動車などを手掛ける世界一の大富豪がイーロン・マスク氏が、twitter社を買収する方向で話しが進められているそうである。
あまり良いニュースではないなあと思いつつ、裕福な者がますます裕福となり、富も権力も何もかも収奪し、ついには言論の自由さえも奪われていくのではないだろうかと不安に思わないもない。
ロシアや中国などでは、もう既に言論の自由はかなり制限されているようだし、誰もがインターネットで自由な発言ができると思っているようなことも、いつかはできなくなることがあるかもしれないし、そもそも、世界には、インターネットなどとは無縁の人たちも大勢いるのだということを忘れてはいけない。
私たちは世界中のどんなことでもニュースなどで知ることができ、何でも調べることができる、と勘違いしていないだろうか。
本当は何も見えていないのかもしれない。
先日、ある方と会議をしなければならなくなり、今の時代ならzoomとかを利用してオンライン会議で話しを進めようと考えていたら、パソコンが使えないどころか、ガラケーしか持っておらず、連絡も電話のみということが分かり、会議の進め方を考え直さなければならくなってしまった。
もちろん、相手の方がどうこうというのではない。
こちらが勝手に「当たり前」のように考えていたことが問題なのである。
豊かで便利な社会に身を置いていると、いろんなことが見えなくなってくるのかもしれない。
もう一度、人と人とが直接会って、いろいろと話し合ったり、触れあったりしながら、その人となりを知り、交遊を深めていく、そういうことの大切さを思い起こすことが大切なのではないだろうか。
イエス様は人となって私たちの世界に来てくださって、人と人とのふれあいを大切になさったお方である。
人が生きていくということは、そういったふれあいが大切なのだろうと思う今日この頃である。