レビ23章1~8節、詩篇31篇10~17節、ルカ22章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

レビ 23:1 主はモーセに仰せになった。
23:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。
23:3 六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。
23:4 以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。
23:5 第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。
23:6 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。
23:7 初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
23:8 七日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、七日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

詩篇 31:10 主よ、憐れんでください わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。
31:11 命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。
31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります。
31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り 壊れた器と見なします。
31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ 脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。
31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し 「あなたこそわたしの神」と申します。
31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。
31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ 慈しみ深く、わたしをお救いください。

ルカ 22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。


新型コロナウイルスの感染拡大のため、多くの集会が取りやめられたり、食事を伴う交わりなどが自粛されることが多くなった。
しかし、それらのことが、いかに教会における礼拝を中心とした活動に悪影響を及ぼしているかといったことは、誰もが心を痛めている事であろう。
そして、いかに人が集まる事や、共に食事の交わりをしたりすることが大切であり、幸いなことであったかということを思わされていることであろう。
いくらオンラインでの活動を取り入れたとして、対面での交わりに代わるものとはならないだろう。
イエス様が弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事の機会を持つために、都で水がめを運んでいる男についていくよう弟子たちに命じられている。
この男性の名前や素性は知らされていない。ただ「都で見ずがめを運んでいた人」というだけである。
弟子たちは、イエス様が言われた通り、その男を見つけ、後についていき、その家で弟子たちと共に過ぎ越しの食事をとられたのである。
名もなき人、見知らぬ人、ではあるが、この男性は確かに主の御業のために用いられたのである。
私たちはともすると、教会に集っている人、礼拝を守っている人、だけのことばかり見てしまいがちであるが、いわゆる信仰者ではない人であっても、神に選ばれ、用いられることはある。
そうした人たちと、どのよう出会い、知り合い、そして交わっていくことができるか。
やはり人が人と顔と顔とを合わせて出会って行くことは大切な事なのだと思う。

イエス様はすべての人を救いたいと願われ、十字架で死んで行かれた。
いつまでも家に閉じ籠っていないで、水筒でも携えながら、都の大通りを歩いてみよう。
どんな出会いがあるかもしれないのだから。