イザヤ54章9~10節、詩篇31篇10~17節、ヘブル2章10~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 54:9 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと あのとき誓い 今またわたしは誓う 再びあなたを怒り、責めることはない、と。
54:10 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。

詩篇 31:10 主よ、憐れんでください わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。
31:11 命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。
31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります。
31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り 壊れた器と見なします。
31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ 脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。
31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し 「あなたこそわたしの神」と申します。
31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。
31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ 慈しみ深く、わたしをお救いください。

ヘブル 2:10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
2:12 「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、
2:13 また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。


私たち人間は、どれだけ愚かで弱い存在であろうかと思い知らされる。
それでも、主なる神様は、私たちを見捨てるどころか、むしろ深く愛し、哀れな私たちをなんとしても救おうと、御子イエス様の命を犠牲にして憐れんで下さったのである。

人間だから、相性が合わない人もいるだろうし、意見が対立し、いつも喧嘩になってしまう人や、敵のように思える人もいるかもしれない。
それでも、どんな人であっても、相手も自分と同じ人間なのだ。
「なんであの人はいつもあんなだろう」などと思う事があるかもしれないし、受け入れがたいこともあるかもしれない。
でも、相手の人がそんな風に思ったり行動したりするのは、本人にしか分かりえない何かの理由があるに違いない。
理解できない時は、無理に分かったような顔をしなくてもいいし、たとえ分からなくても、同じ人間であるということだけは事実である。
イエス様が私たちのことを「兄弟」と呼んでくださるのだから、私たちも互いのことを兄弟姉妹と思えるように、憐れみの心を失わないように心がけたいものである。
憐れみの心を保てそうにない時は、その時こそ、十字架で死んで下さったイエス様のお姿を思い起こそう。
どれだけ大きな犠牲を支払って赦された者であるかということを思い起こせば、他者に対して、少しは赦せる心も与えられる、そう信じていきたい。