エレミヤ13章12~19節、詩篇1篇、使徒13章26~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 13:12 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」と。すると、彼らはあなたに言うだろう。「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と。
13:13 あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。
13:14 わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と主は言われる。
13:15 聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。
13:16 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ 闇が襲わぬうちに 足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし 暗黒に変えられる。
13:17 あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。
13:18 王と太后に言え。「身を低くして座れ。輝かしい冠は あなたたちの頭から落ちた。」
13:19 ネゲブの町々は閉じられて開く者はなく ユダはすべて捕囚となり ことごとく連れ去られた。

詩篇 1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

使徒 13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。
13:28 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。
13:29 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。
13:32 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。
13:33 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。
13:34 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。


パウロはアンティオキアから宣教の旅へと出かけていったが、最初の頃は、各地に離散しているユダヤ人らを尋ね、彼らと共に生きる異邦人たちも含め、福音を宣べ伝えていたようである。
聖書の知識をある程度持ち、安息日に会堂で集まる人たちに伝えたほうが効果的であったからであろう。
しかし、イエス様を十字架につけたエルサレムに指導者たちも、聖書の知識を持ち、安息日に会堂に集う人々であったはずである。
いったい、何が違っていたのだろう。
当然、エルサレムに住む宗教的な指導者たちは、自分たちこそ正しいと考えていたであろうし、自分たちの権威を損なう恐れのあるイエス様の存在は、ただただ邪魔な存在でしかなかったのだろう。
自分たちの保身のことしか考えておらず、彼らにとっては、聖書の御言葉も安息日における礼拝の行為も、全ては自分のためにあったということなのだろう。
パウロが伝道し、彼の言葉を聞いて救われた人たちには、そんなよこしまな思いは少なかったであろうし、純粋に救いを求め、御言葉に聞き、会堂に集う事を守っていたのだろう。
そういう人には、イエス様の十字架の死と復活の意味が理解できるのだ。
自分を救ってくれる神、そのために、御子キリストの命をも惜しまずに捨てられた大いなる神の愛、すべてが幸いな福音の言葉となりうるのである。

私は罪深い。
自分ではどうすることもできず、滅びるしかない身。
そんな私を、主なる神様が憐れんで下さり、御子キリストの贖いの恵みを持って、救って下さった。
これが幸いな福音の言葉。
私はそのことを信じる。
ただそれだけのことである。