士師記 5:12 奮い立て、奮い立て、デボラよ 奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ。立ち上がれ、バラクよ 敵をとりこにせよ、アビノアムの子よ。
5:13 そのとき、残った者は堂々と下って行く 主の民は勇ましくわたしと共に下って行く。
5:14 エフライムからは アマレクにその根のある者が下り ベニヤミンは あなたの同族の者と共にあなたに続き マキルからは指揮する者らが ゼブルンからは指図の杖を持って率いる者らが 下って行く。
5:15 イサカルの将軍らは、デボラと共にいた。イサカルはバラクと同様 その歩兵らと共に平野に送られた。ルベンの諸支族には 大いに心に期するものがあった。
5:16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座して 羊の群れに吹く笛を聞くのか。ルベンの諸支族には 大いに心に究めるものがあった。
5:17 ギレアドはヨルダンの向こうにとどまった。ダンは、なぜ舟に宿るのか。アシェルは海辺に座し 舟着き場にとどまった。
5:18 ゼブルンは死ぬことをいとわぬ民 ナフタリも野の高い所に陣取った。
5:19 王たちはやって来て、戦った。カナンの王たちは戦った メギドの流れのほとり、タナクで。だが、銀を奪い取ることはできなかった。
5:20 もろもろの星は天から戦いに加わり その軌道から、シセラと戦った。
5:21 キション川は彼らを押し流した 太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め。
詩篇 106:1 ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。
106:2 主の力強い御業を言葉に表し 主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。
106:3 いかに幸いなことか、裁きを守り どのような時にも恵みの業を果たす人は。
106:4 主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。
106:5 あなたの選ばれた民に対する恵みを見 あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い あなたの嗣業の民と共に 誇ることができるようにしてください。
106:6 わたしたちは先祖と同じく罪を犯し 不正を行い、主に逆らった。
106:7 わたしたちの先祖は、エジプトで 驚くべき御業に目覚めず 豊かな慈しみに心を留めず 海辺で、葦の海のほとりで反抗した。
106:8 主は、御名のために彼らを救い 力強い御業を示された。
106:9 葦の海は主に叱咤されて干上がり 彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。
106:10 主は憎む者の手から彼らを救い 敵の手から贖われた。
106:11 彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ 生き残る者はひとりもなかった。
106:12 彼らは御言葉を信じ 賛美の歌をうたった。
1ヨハネ 5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
5:17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
5:21 子たちよ、偶像を避けなさい。
神を信じ、救われた者は、もはや永遠に滅びることのない命の約束を頂いている。
これは感謝なことであるが、あいかわらず罪に満ちた世界の中で生き続けなければならない。
神から生まれたものは罪を犯さないと語られているが、なかなかそう上手くはいかず、世の荒波に押し流され、自分の願いとは裏腹に罪を犯してしまう事もあるだろう。
それでも神と共に歩もうと思う者は、たとえわずかな機会でも罪に魂を売るようなことを避けて生きていきたいと願うだろう。
ヨハネの手紙では、最後のところで偶像を避けるよう勧められている。
偶像とは、いわゆる木や石を刻んで作った像のことだけを言っているのではない。
自分の描く理想像も、自分の願う肉の欲望も根は同じである。
そういう意味では私たちは自分でも気づかぬうちに自分自身の思いを優先させて生きようとしていることが多い。
神がどう望まれ、神がどう生きよと命じられているのか、いまいちど、じっくりと吟味しながら歩むものとならせて頂きたい。
主なる神様は、御子イエス様の尊い命の代価を支払って贖って(買い取って)下さった。
たとえ罪深くても、私は主のものである。
「主は私の神」であるけれども、まず「私は主のもの」であるということを覚え、主に運ばれ、用いられ、生かされるるものでありたい。