“祈りとは、過去、現在、未来を浄めるものである”
この言葉は、昭和44年6月の五井先生のお話の中の一説ですが、とても深い意味があります。
人間の運命というものは、過去に行ったこと、想ったことによって80%が決まっています。
人を殺めた人が、来生も幸せで、人格も完全円満で、満ち足りている、ということはありえません。
やましさ、自己処罰の想い、影が付き纏っているのです。
生きる意味がわからないのです。
生きることが苦痛なのです。
理由は本人もわからないでしょう。
それが精神的な病になったり、自殺願望になったり、迫害される境遇のなかに入ってゆくのです。
歴史をみれば明白です。
祈りは、そういう過去を浄め、過去を浄めることで、未来を良くし、現在をよりクリアーな、良い生き方へを導きます。
だから祈りを知らないと、とても損になります。
一例を挙げてみましょう。
「生命光り輝け」から
“或る日、屠殺を仕事としている人が私のところに来て「先日、牛を殺したところ、倒れた牛が目をあけて、二、三歩私のほうへ這い寄ってから死にました。どうも気分が悪いから、先生お浄めして下さい」というのです。私がみると、そのような仕事の人にはよく迷った魂がついているのに、その人には何もついていない。不思議に思って聞いてみると、その人はいつも南無阿弥陀仏を唱えて生きものを殺している、というのです。
同じ動物を殺すにしても、或る人にはそれが業として残り、或る人には残らない、というのはどういうわけかというと、それはすべてその人によるのです。たとえば豚なら豚を殺して食べれば、ふつうならそれだけ少しづつ殺したという業が分けられて、食べた報いがくるわけですが、「この豚肉が私の栄養となりまして、人類のために働けますように、豚さん有難うございます」と感謝して食べるようにしますと、死んだ豚が生きて来ます。そうすると業にはならないのです。
なんでも、ものが生かされるか、犠牲になるかは、その人が感謝するかしないかによって左右されるので、屠殺を仕事とする人は「南無阿弥陀仏、世界人類が平和でありますように」と祈って殺せばよく、肉屋さんは「どうかこの肉が人類のお役に立ちますように、世界人類が平和でありますように」と祈りながら売ればよく、また肉を食べる人は「この肉が栄養となって人類のために生きますように、豚さん有難う、世界人類が平和でありますように」と感謝を捧げて食べればよいのです。
なんでも感謝の心をもってやれば業は消えてゆきます。すべてを生かしていくのが人間の使命ですから、私たちは日常茶飯事に、すべてに感謝の祈りを捧げていかなければなりませんね。”
ということで、祈りの中で、すべての命が活かされ、光り輝くのです。