明智光秀生存説のお話で、天海になって天下平定する想像話です。良かったら読んでください。
今回は、細川ガラシャ生存説の想像話です。
細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ/明智玉)
は、明智光秀の娘であり、戦国時代を代表するキリシタン(キリスト教徒)の女性です。
父・光秀の主君である織田信長の仲介で、智勇に優れた若き武将・細川忠興(ほそかわ ただおき)と結婚します。夫婦仲は非常に睦まじく、幸せな日々を送っていました。
父・光秀が「本能寺の変」を起こしたことで状況が一変します。お玉は「謀反人の娘」となり、夫の忠興によって味土野(京都府の山奥)に2年間も幽閉される過酷な日々を送りました。
幽閉が解かれた後、心の救いを求めて大坂の教会を訪れ、隠密に洗礼を受けます。この時に授かった洗礼名が「ガラシャ(ラテン語で『神の恵み』の意)」です。
彼女の壮絶な死にショックを受けた石田三成は、他家の大名妻を人質に取る戦術を断念せざるを得なくなり、結果として関ヶ原の戦いの流れ(東軍の団結)を決定づけました。
ここからが想像話となります。
表向きガラシャは亡くなった事になっていました。明智光秀は、本能寺の変の際、細川藤孝に手紙を送っています。その手紙の意味とは、一つは藤孝に疑いがかからないように。もう一つは、娘を守ってくれという事でした。
なんとかこの危機を乗り越え、これからという矢先細川家とガラシャに災難がふりかかります。
関ヶ原の戦いの前年(1599年)、豊臣秀吉が亡くなった直後、細川忠興は加藤清正や福島正則らと共に、石田三成を大坂城下で襲撃する事件(七将襲撃)を起こしています。この襲撃事件の際、忠興らを庇い、三成を失脚させてピンチを救ってくれたのが徳川家康でした。この時点で、忠興は家康に巨大な恩義と信頼を寄せていました。
そして、関ヶ原の直前、細川家は「徳川暗殺計画(前田利長の謀反の噂)」に加担しているのではないかという冤罪(疑惑)をかけられ、豊臣奉行衆から取り潰しの危機に追い込まれました。この時、忠興の親友であった前田利長が家康に屈服した際、忠興もまた家康に対して「私は絶対に裏切りません」という証明として、自分の母親や長男の妻を人質として江戸へ送りました。家康は忠興の忠誠を認め、細川家を完全に許しました。これにより、細川家は「豊臣の官僚組織(三成ら)よりも、家康個人の信義を重んじる」という立場を明確にしました。
この件は、家康の見事な切り崩しに、豊臣家武闘派と言われた武将たちがとりこまれてしまった重大事件となりました。戦がいよいよ起こりそうになっていました。後の関ヶ原の戦いです。細川家は東軍につく事となりました。
石田三成は、高台院のところに行き話ました。
家康に嵌められました。福島正則、加藤清正、細川忠興など家康の策にはまり、東軍に行きました。
その策を阻む事が出来ませんでした。残念です。
高台院は胸を痛めました。まさか兄弟として育ててきたこの子たちが戦う事になるとは…。
三成は続けて話をします。
この事で西軍内にも不穏な動きがある。宇喜多秀家が暴走の気配あり。増田長盛、大谷吉継らも宇喜多秀家側に加担している可能性がある。
高台院は、妙心寺に使いを出し内容を報告した。
後日、光秀からの文が届いた。
石田三成に大坂城に東軍に行った武将たちの家族を戦が始まる前に保護するように宇喜多秀家に指示しろ。という内容であった。後はこちらで手配するので、三成にはそれだけ伝えてほしいという事だった。
三成は指示に従い命令した。
細川ガラシャを大坂城へ保護せよ。と。
つづく


