かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院② | 舟水の世界ごゆるり街歩き

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               NHK教育番組「たんけんぼくのまち」で強烈な刺激を受け、小学校の頃から地理大好き人間。日々の散策からちょっとした世の中の宝箱を覗いて見ませんか?

東京を代表する総合病院のひとつ聖路加国際病院。芸能人や政財界で活躍する有名人が利用する病院としても有名です。一言で言えば金持ちの為の病院とも言えます。訃報の際、ワイドショーやテレビニュースなどで聖路加国際病院からの中継というのは、多くの人が記憶にあるところだと思います。ここ最近では2016年10月に満100歳で薨去された三笠宮さまの訃報の際、聖路加国際病院からの中継が多く見られました。聖路加国際病院は赤十字活動などの観点から、皇室とも深い繋がりがあり、1923年の関東大震災で病院が倒壊した際は、その再建に必要な資金の一部を皇室が下賜(寄付)したという経緯もあるほどです。

 

そんな聖路加国際病院ですが、その場所が幕末:明治に外国人居留地だったことを知る日本人は数少ないのではないでしょうか。個人的に中央区に住んでいたことがあるからこそ知るきっかけになった聖路加国際病院と築地外国人居留地の歴史。その深ーい歴史を多角的にご紹介したいと思います。

 

 
 

(2016年8月撮影)

聖路加国際病院は東京都中央区明石町に米国聖公会の宣教師ルドルフ・トイスラー博士によって1902年に創設されました。100年以上にわたって、キリスト教精神の下に患者のケアが行われている総合病院です。

 

 

 

 

聖路加国際病院の場所です。

最寄り駅は東京メトロ日比谷線築地駅です。駅から徒歩約10分です。

築地本願寺が目と鼻の先ですので、聖路加国際病院で死去からの築地本願寺での葬儀というのは、ある意味、有名人・著名人の定番のコースでもあり、終末医療と葬儀の複合型施設という表現が当てはまるスポットでもあります。聖路加からの本願寺というコースはそれなりの金額がかかるのは言うまでもありません。

 

 

 

 

 

グーグルマップに黄緑の線で囲んだエリア。これが1867年に当時の江戸幕府が設けた築地外国人居留地になります。

 

江戸時代の地図です。

 

1867年、この場所が築地外国人居留地へと姿を変えます。1875年に新設された米公使館が地図にはまだ記載されていない為、1875年以前の築地居留地の地図ということになります。

 

地図の端っこには、当時の築地外国人居留地の地代が記載されています。?元代と地代の2種から成っていたようで、一坪に付きいくらとなっています。

 

赤枠が現在の聖路加国際病院。青枠が聖路加ガーデンタワーになります。

 

聖路加ガーデンタワーが建っているこの土地。青枠部分の土地に注目です。弐番(二番)三百五拾八坪 と記載されており、米 ベッチェ●ドルと、国名と居住人の名前が記載されています。要はNo2の区画の土地はアメリカ人が借りていたのです。

 

そのアメリカ人が居住していたその土地が、1875年アメリカの公使館(大使館)になったのです。米公使館の文字が見て取れます。

 

(2016年8月撮影)

故に、こちらの地図の現在地のそばに、アメリカ公使館跡の記念碑が示されていたりするのです。

 

(2016年8月撮影)

この絵図を見ると、どこがどこに該当するのか一瞬分かりにくいのですが・・・・

 

隅田川と佃島の位置が掴めれば、イメージは簡単にできます。月島の埋め立てがなされた頃のイメージですね。

 

(2016年8月撮影)

聖路加国際病院横の聖ルカ通りから歩き進めていきます。

 

(2016年8月撮影)

聖ルカ通りは、交通量も僅かで、とても静かな通りです。

 

(2016年8月撮影)

こちらが聖路加国際病院のエントランスになります。タクシーが付け待ちしています。芸能人が著名人の利用も多い聖路加国際病院。彼らの訃報の一報が入ると、この辺りに報道陣が集結します。ちなみに、1995年の同時多発テロ:地下鉄サリン事件の際には、日比谷線でのサリン散布も行われました。その際、築地駅で列車が停止し、サリンを吸った被害者が緊急搬送され、近場の聖路加国際病院に担ぎ込まれたというエピソードは有名です。

 

(2016年8月撮影)

外国人居留に出来た聖路加国際病院。その起源は、後ほど紐解きます。

 

(2016年8月撮影)

聖路加国際病院の対面(隅田川方面)には聖路加ガーデンタワー(47階建てと38階建ての高低差があるツインタワー)がそびえ、その姿は最早タワマンです。写真左側の47階建ての棟にはオフィスフロアとして賃貸されている部分もあり、かつて、大手広告代理店電通の大半の部署が汐留に新本社ビルを完成させる前に、旧社屋を引き払い、ここに入居していたというのは有名な話です。今になって思えば、コロナ過で本社ビルを売却するような流れになるなら、いっそのこと、ここに居座っていた方が良かったのでは・・・とは言っても、後の祭りです。

 

(2016年8月撮影)

病院前をごゆるりごゆるり徘徊していきます。

 

(2016年8月撮影)

病院の敷地周辺に、こういった洋式のテイストがある噴水があったりするのは、かつての居留地の名残を感じさせてくれます。

 

(2016年8月撮影)

にゃにゃっ!?と現れた像は・・・・ 誰だか分かりますか?

 

(2016年8月撮影)

一度は耳にしたことがあるシーボルトです。長崎での知名度が圧倒的なシーボルトですが、シーボルトの娘の「いね」が医師となり、ここ築地に産院を開業していたこと、また築地に外国人居留地があったことから、直接的な関係は薄いものの、日蘭の橋渡し役としての功績に報いる為、ここにシーボルト像が設置されているそうです。

 

(2016年8月撮影)

築地外国人居留地は貿易ばかりの歴史ではありません。江戸時代から近代文明を持つ先進国とされていたオランダ。その蘭学は、この地が外国人居留地となる前から発展しており、慶應義塾大学や立教大学の発祥の地となりました。

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

安政5年(1858年)、福沢諭吉は築地鉄砲洲(後の築地外国人居留地)にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えました。その蘭学塾が後の学校法人慶應義塾大学の基礎となったため、この地が慶應大学発祥の地とされているのです。

 

もう一度、江戸時代の地図を見て見ましょう。当時、福沢諭吉が住み込んで蘭学を教えていたという奥平家の屋敷・・・・それは現在の聖路加国際病院の敷地にあたることが分かります。もう、完全なブラタモリです(笑)

 

(2016年8月撮影)

続いて、立教学院発祥の地の碑が現れました。

 

(2016年8月撮影)

1874年C.M..ウィリアムズ主教、立教学校を開く。。。とあります。 「立教学校」は1874(明治7)年、米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教によって設立された学校です。東京・築地に聖書と英学を教える、わずか数人の生徒で始まったこの小さな学校が立教大学の前身となっています。ウィリアムズ主教は、当時の“実利主義”や知識、技術を物質的な繁栄と立身出世の道具とする日本の風潮をよそに、ここを「キリスト教に基づく真の人間教育を行う場」と位置づけ、常にその本質に迫ろうとする自由の精神、そして、個性を重視した人間教育を実践しました。

 

ゆえに立教大学の校旗は、ヨーロッパ諸国の国旗のように白色の十字架を描いたデザインとなっています。

 

築地外国人居留地内にあった立教中学がこちらです。手前には現在は埋め立てられてしまっている築地川が流れています。当時の立教中学は、現在の聖路加国際大学の築地側沿いの敷地に建っていたのです。

 

 

この築地外国人居留地は日本の私立大学の発展に大きく影響を及ぼした場所です。他にも、青山学院大学・明治学院大学・工学院大学・女子学院・暁星学園などの発祥のきっかけとなりました。

 

 

築地外国人居留地は学問の発祥の地であったり病院が建設されたり・・・・と、少し不思議な感じがしないでしょうか?そのヒントがこちらの絵図で見て取れます。築地外国人居留地の沖合に停泊しているのは外国の大型船です。実は江戸湾は港底が浅く、巨艦は居留地に接岸出来なかったのです。よく見ると小型の船が陸地と大型船の間をピストン荷役している様子が分かります。こういった不便性があった為、横浜や神戸のような商業港には発展せず、その代わりに宣教師や医師、留学生が多く移住するようになったのです。

 

そもそも、この居留地は国内外の貿易商人で賑わうと見込まれていた為、現在の新富町2丁目(中央区役所近く)には新島原遊郭が設けられましたが、思惑が一気に外れ、遊郭の開業から僅か4年で撤退に追い込まれた・・・というエピソードも残ります。

 

 

 

1875年

そんな中、居留地にやってきた外国人の中に宣教医師ヘンリー・フォールズというスコットランド人がいました。フォールズは1875年、この居留地に健康社築地病院を設立します。彼は1886年まで活動し、同年に日本を離れます。フォールズがいなくなった後、築地病院は荒廃し、月日が流れて行きます。

 

1902年

米国聖公会のルドルフ・トイスラーが荒廃した築地病院の建物を買い取り、新たな病院を設立します。それが聖路加国際病院です。つまり、直接的な関りは持っていませんが、築地病院は聖路加国際病院の前身にあたる訳です。

 

(2016年8月撮影)

そのルドルフ・トイスラーがこちらです。

 

1923年

 関東大震災で聖路加国際病院が倒壊。患者を他へ移送したり、仮設病院での対応が日々続くようになります。そんな中、ルドルフは入院患者の手当てを続けながら、診療を再開する場所を確保する為、病院再建の資金集めに駆け回ることになります。アメリカのロックフェラー財団とも交渉し、援助を取り付け、日本人の医学生をアメリカへ留学までさせていました。

 

 

病院再建に向け1928年に着工。写真は1932年当時

 

1933年

皇室・米国聖公会・米国赤十字付などからの寄付により病院再建計画を進めた結果、1933年に新しい病院が完成します。それが現在の旧病院棟(現:聖路加国際大学)になります。再建には大隈重信や渋沢栄一も寄付した記録が残されていますが、皇室からの寄付があったことは注目に値します。そういったことから、現在でも皇室と聖路加国際病院には深い繋がりがあることは興味深いものです。

 

(2016年8月撮影)

これが1933年に竣工した現在の旧病院棟(現:聖路加国際大学)です。

 

(2016年8月撮影)

現在、旧病院棟の入り口横には1930年に行われた病院再建の定礎式で披露された基礎石がそのまま残されています。今から90年以上前のものです。

 

(2016年8月撮影)

説明書きを見ると、定礎式の出席者を見る限り、聖路加国際病院の再建は様々な方面の援助を経て再建されたことが分かります。

 

(2016年8月撮影)

この写真に3つの時代を集約してみました。左手に見える建物が1933年に竣工された現在の旧病院棟です。右手に見えるのが1992年に竣工の新病院棟です。そして、その背後に見えるタワーが1994年竣工の聖路加ガーデンになります。

 

1958年(戦後)の写真です。隅田川にも船が行き交う姿が写っています。

 

1958年  こうして見ると現在の区画そのものです。

 

 

(2016年8月撮影)

旧病院棟と新病院棟の合間には、ロッジのようなお家が一軒建っています。トライスラー記念館です。

 

(2016年8月撮影)

昭和8年に、聖路加国際病院の宣教師館として建設されたとあります。元々病院近くの別の場所に建てられていましたが、平成元年に解体。平成10年、この場所に移築復元されたとあります。恐らく、この建物の所有者が、その土地に家を建てるか、土地を売却かするかで、解体した為、当時の建物を保存するという観点から修復可能な状態で解体され、どこかに保存されていたのだと思います。それを聖路加国際病院が引き取ってくれた?のかもしれません。

 

(2016年8月撮影)

ここにいると田舎の山小屋でも来たかのような感じになります。

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

驚くことに、この家の周りには小川が流れています。

 

(2016年8月撮影)

この小川の水は、災害時の医療用水の準備のために循環させているそうです。

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

トライスラー記念館の前には、星条旗の星、国鳥の白頭鷲、盾の記念碑が展示されています。これは元々、居留地にあった米公使館の敷地内に設置されていたもので、現在は、こちらへと移設されています。この3種の碑があるのがアメリカ公使館の証だそうです。1875年のものだとすると、150年近く前のものになります。

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

鷲の周りを13個の★が取り巻いています。建国13州の象徴です。

 

(2016年8月撮影)

こちらの星条旗の盾も13個の★です。

 

(2016年8月撮影)

聖路加国際病院がこの地にできる前には、付近に「耕牧舎」という乳牛の牧場があったそうです。その牧場の経営者:新原敏三の長男として生まれたのが芥川龍之介だった・・・というのです。これまた、なんとも不思議な縁です。乳牛ということは居留地の外国人に牛乳を売っていたのかもしれません。

 

こちらが、芥川龍之介の父:新原敏三の名前を確認できる資料です。元々この居留地の土地を所有していたのは、五代友厚という大阪では名が知れ渡っていた人物でした。西の五代友厚、東の渋沢栄一と言われる程の実業家だったそうです。その五代友厚が亡くなり、その遺産を引き継いだのが、嫁の五代トヨです。五代トヨは居留地の土地を貸し出しており、その土地の一部を借りていたのが、芥川龍之介の父:新原敏三だったのです。つまり、「耕牧舎」という乳牛の牧場は、この資料の土地だったことが分かります。

 

(2016年8月撮影)

1933年に竣工した旧病院棟の正面?裏側?へと回ってきました。先ほどは、敷地内から旧病院棟を見ましたが、道路側に回ると、いかにも教会という建物です。聖路加という名前だけあります。

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

 

1933年に竣工した聖路加国際病院。旧病院棟を上空からのグーグルマップで見て見ると、建物が十字架を切っているのが分かります。第二次大戦中、この聖路加国際病院を始め、築地外国人居留地があったからこそ、東京大空襲のような時でも、中央区築地界隈は米軍からの空爆を免れることが出来たと言われています。特に聖路加国際病院はアメリカ人のトイスラー医師が開業。米聖公会や米国赤十字が絡んでのほぼほぼ米国施設。ここに空爆することは、自国の大使館に空爆するようなものです。代わりに爆撃を受けることになったのが、同じ隅田川沿いの浅草界隈や町工場の多かった墨田区です。アサヒビール本社などがある吾妻橋一帯などは、爆撃で死体の山と化したのは有名な話です。

 

(2016年8月撮影)

そういった米軍の空爆を免れた経緯から、中央区築地界隈やその周辺には、戦前の銅板屋根の建物を所々に見ることが出来るのです。

 

上空から見た十字架は、聖路加ガーデンタワーにも引き継がれています。

 

(2016年8月撮影)

旧病院棟が沿っている北側の通りの名前は居留地通り。その居留地通りから隅田川の方向を眺めます。

 

(2016年8月撮影)

ここが居留地であったことを示す、通り名が今にも生きます。

 

(2016年8月撮影)

旧病院棟に隣接している聖路加国際大学。病院から墓場まではなく、大学から病院就職まで一貫しているものと思われます。聖路加国際大学を卒業して、虎の門病院に就職!なんてのも有りなんでしょうか?

 

(2016年8月撮影)

 

(2016年8月撮影)

聖路加国際大学の西側には築地川の埋め立ての跡を確認することが出来るスポットがあります。平地なのに、橋がある光景です。「あかつきばし」と書かれています。川を埋め立てて公園にしてる様子がよく分かります。

 

(2016年8月撮影)

こちら側から見るとこの通り。このように橋まで残されている光景はとても珍しいです。

 

(2016年8月撮影)

もうひとつ向こうの橋もこんな感じです。

 

(2016年8月撮影)

反対側は橋の面影が消されています。川がずっと埋め立てられ、細長い駐車場と化しています。こちらの駐車場は築地本願寺の裏手にあたります。この駐車場を突っ切れば、築地場外市場へと繋がります。

 

聖路加国際病院シリーズ、次回は、病院の周辺に残されている居留地時代の街並みとその名残をご紹介します。

 

 

以上、かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院② でした。

 

つづきは、こちら↓

 

かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院③   

 

 

 

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かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院①   の記事はこちら

 

 

 

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