前回まで2回に亘り、築地外国人居留地や聖路加国際病院の歴史や経緯について書いてきましたが、今回は築地外国人居留地(現在の中央区明石町)に残る、当時の建物であったり、その影響を受けた街並みが残るポイントをご紹介していこうと思います。
(2016年8月撮影)
聖路加国際病院の場所です。
緑の線で囲った旧築地外国人居留地は、現在、中央区明石町という住所になり、極々狭いエリアの町名となっています。
(2016年8月撮影)
居留地を東西に結ぶ居留地通り。
(2016年8月撮影)
居留地を南北に結ぶ居留地中央通り。
(2016年8月撮影)
居留地通りと並行して東西を結ぶ聖ルカ通り。
明石町を東西に走るのが居留地通り、そして聖ルカ通り。南北に走るのが居留地中央通りとなっています。居留地通りと居留地通りが交わる交差点の角地は、当時の居留地時代の名残を見つけることが出来るスポットとなっています。
(2016年8月撮影)
中央区立明石小学校です。一見むむっ???っとなります。居留地と言う歴史的背景からこのような欧米風の建築デザインを校舎に取り入れているものと思われます。しかし、個人的にはモスクを見慣れているせいか、アラビックな感じを強く受けました。エントランスの上に付いている校章を月と星に取り変え、校内のスピーカーからアザーンを響かせれば、そのままモスクとしても使用できる物件ではないか・・・と思った次第です(笑)
(2016年8月撮影)
校章の外郭はイエスキリストからくる月桂冠がモチーフになっているようです。
(2016年8月撮影)
居留地通りから校舎全体を眺めると一階部分が、欧米建築に見られる回廊のようなデザインになっています。
(2016年8月撮影)
2階以上の窓側の部分は、万が一窓の外に出た児童がテラス?から落下しないように、後付けで特殊な整備がされているようです。
(2016年8月撮影)
明石小学校の敷地の角には、100年以上前の居留地時代のガス街灯が保存されています。また、足元には居留地時代のレンガ塀が記念で保存されています。
(2016年8月撮影)
ガス街灯の横には、居留地時代の歴史をが記載された案内書きが中央区によって設置されています。
(2016年8月撮影)
この絵は、近代日本画壇の美人画の巨匠のひとり、鏑木清方が描いたものです。居留地で遊んでいる欧米人の少女を描いた絵です。この絵にはガス街灯が描かれており、保存されているものと全く同じデザインであることが分かります。草木の向こうには海に浮かぶ船の帆が並んで描かれています。
(2016年8月撮影)
明石小学校前の交差点の別の角地には、カトリック築地教会があります。東京都内でも最古の部類になる教会です。
(2016年8月撮影)
教会への入り口には独特の門構えをしたコンクリートの柱がどっしりと構えています。
(2016年8月撮影)
そばで見ると、門柱には苔が生しており、頭の中央部分には十字架が浮き彫りされています。興味深いのは、この右側の門柱に張り付けられているプレートに彫られている築池カトリック教会という文字です。築池???ってなりませんか?築池となっているのです。築地を築池と表記する習慣があったのかと思い、ネットで検索しましたがヒットしません。単なる間違いでしょうか?ご存じの方がいれば教えて欲しいものです。
(2016年8月撮影)
正面に回って見ると、奥にはプチ神殿のようなデザインをした教会がひっそりと佇んでいます。右手の木は桜のようです。
(2016年8月撮影)
左の門柱には「聖ヨゼフ幼稚園」とあります。後から1924~2007と彫り込まれたようです。調べて見ると2007年3月31日をもって閉園したとの事。戦前からの幼稚園で、歴史のある中央区唯一の私立幼稚園だったそうです。幼稚園受験などがある、ふざけた幼稚園だったようなので、個人的には浄化の一環で良かったと安堵したところです。
(2016年8月撮影)
居留地時代から存在していた教会ではありますが、1923年の関東大震災で焼失した為、築年が再建された1927年になっています。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
午後5時まで開いているようです。
(2016年8月撮影)
この聖堂は東京都選定歴史的建造物および中央区の区民文化財に指定されています。右側の建物が、幼稚園施設だったようです。
(2016年8月撮影)
神殿のミニチュア版のような感じですが、90年以上前の建物なので趣があります。教会の後ろにそびえたつ聖路加ガーデンとの対比に過去と現在の共存を見ることが出来ます。
(2016年8月撮影)
敷地内には神社内にある「塚」の如く、記念碑が建っています。
(2016年8月撮影)
閉園した聖ヨゼフ幼稚園にずっと存在してきた碑でしょうか。キリスト教だけに葡萄の木が描かれています。
(2016年8月撮影)
シンプルかつコンパクトで美しい教会です。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
こちらの正面の扉から入ろうとしたところ、鍵がかかっていました。横を見ると別の扉があり、そちらが入り口となっています。
(2016年8月撮影)
前室を経て、こちらの扉から入場するようになっています。扉には十字架を模った小さなガラスの窓が付いていてお洒落です。その窓には何か張り紙がされています。
(2016年8月撮影)
にゃにゃ!?明石町をうろうろするニャンコがいるようです。都心で力強く生き抜くにゃんこなら、入れてあげてもいい気がしますが・・・ CAT OUT.....すなわち、.GET OUTですか・・・・
(2016年8月撮影)
ドアを開けて中に入ると素敵な空間が広がっています。机の足元には座布団が備え付けられています。結婚式を挙げるならホテルや婚礼会館の薄っぺらい教会よりも、この教会で二人だけで、そっと結婚式を行う方が遥かに温かな気持ちになれる気がします。
(2016年8月撮影)
理由があり結婚式を挙げてこなかったカップルの方は、そっとこちらの教会で、主に結婚を誓ってみてはいかがでしょうか。男性の方から、行きたいところがあると言って、サプライズで女性を誘い出す必要があるとは思いますが・・・
(2016年8月撮影)
聖ヨゼフ教会の門から居留地中央通りに出ると、暁星学園発祥の地の碑が建てられています。2020年1月に起きた暁星学園サッカー部暴行事件で有名な中高一貫校です。どんなにガラが悪い学校なの?と思われるかもしれませんが、千代田区にある名門校です。
(2016年8月撮影)
明石小学校の近辺を歩くと、何となく日本離れしたデザインの建物をチラホラと見ることが出来ます。階段の踊り場の採光を良くするための吹き抜けのデザインが洋式なテイストを感じさせます。
(2016年8月撮影)
こちらのマンションはもう、所有者がキリスト教であること間違いなしです。
(2016年8月撮影)
こちらは、明石町ではなく、ちょっと離れたところですが、こちらもひょっとしたら・・・それとも単なる昭和のデザインなのか・・・
(2016年8月撮影)
明石町内には塩瀬家総本家があります。自社ビルの塩瀬ビルです。
(2016年8月撮影)
670年以上の歴史がある菓子の老舗です。創始者は林浄因という中国人。歴代の日本の支配者たちからも支持され、皇室にも納める老舗です。そういった力がある企業だからこそ、居留地の後の土地を手に入れることが出来たのかもしれません。
(2016年8月撮影)
自社ビルに輝く塩瀬家総本家の屋号です。
(2016年8月撮影)
塩瀬ビル前の居留地通りを東に向かうと、隅田川に出ることが出来ます。手前の橋は佃大橋、奥はタワーマンションが並ぶリバーシティ21です。
(2016年8月撮影)
隅田川沿いを佃大橋の袂まで行くと、佃島渡船場跡の碑があります。この碑を見ると、ここが佃島への渡し船の乗り場だったのかと感慨深くなります。現在の佃と言えば、タワマンが並ぶリバーシティ21ですが、戦前は石川島造船所(現在のIHI:石川島播磨重工業)がある場所でした。つまり、写真のこの場所から造船所の作業員や工場労働者が渡し船に乗って石川島造船所に出勤していたのです。
(2016年8月撮影)
佃の渡し船のポイントから隅田川テラス沿いを南下してきました。佃島・月島の方には帆影の代わりに月島の高層ビル群が誇らしく建ち並びます。この角度からの風景が居留地時代だと、どうだったのか・・・・
それがこちらです↓
1897年当時の様子です。こうしてみると、上海の外灘(バンド)そのものです。。。海岸沿いには欧米の公館や屋敷が立ち並んでいます。電柱が立てられ電線が通っています。
当時の絵葉書です。この絵ハガキを見ると・・・
こちらの絵↓を思い出しませんか?
1875年、ここに米公使館が設けられましたが、1890年、赤坂に移転します。その後、建物はホテル・メトロポールとして運営されます。この絵図はその時の様子です。 時が流れメトロポールは廃業に追い込まれ、更地となります。1914年、この土地と隅田川沿いの土地を聖路加病院がまとめて購入します。現在、この跡地は銀座クレストンホテルが入居する38階建ての聖路加レジデンス棟になっています。
(2016年8月撮影)
隅田川テラスは、ドラマや映画の撮影でもよく使われるスポットです。
(2016年8月撮影)
隅田川テラス沿いの東京運上所のあった場所(現在の治作の裏側)は興味深いことに、このようになっています。当時の居留地の名残のレンガ造りの塀が残されています。そこにアーチ型のデザインが・・・・これは元々アーチ形の門だったところを埋め合わせして塀にしてしまった部分でしょうか?つまり、運上所への海側からの入り口だったのでは???観音開きの鉄の門がここにはあったのではないか・・・と推測してしまいました。
(2016年8月撮影)
その埋め合わせ?された場所は花壇になっており、ヒマワリが咲いています。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
隅田川テラスを勝鬨橋北詰の辺りまで来ました。奥はニチレイ本社、手前の茶色いビルは住友生命保険相互会社の東京本社です。このスポットも少し、欧米な雰囲気を感じさせるオブジェがあります。
(2016年8月撮影)
壁に埋め込まれているのは、水道型の噴水?でしょうか。こちらは当時の名残を生かすために、後付けされたものと思われます。ひょっとしたら、居留地に残っていた?ものを移設させて飾っているのかもしれません。
(2016年8月撮影)
そばには、独特のフォルムをした花壇もあります。
(2016年8月撮影)
住友生命本社東京ビルの裏側から眺める隅田川、勝どき橋です。奥には勝どきのタワマンがそびえます。左側の低層のマンションには月のオブジェがあります。
(2016年8月撮影)
勝どき側のマンションの屋上にある、月のオブジェ。これは、月島から由来して取り付けているのでしょうか・・・ 勝どき在住の頃はいつも気になっていました。
(2016年8月撮影)
築地を中心とした中央区には銅板の家が所々に残されています。これは、聖路加病院をはじめとした外国人居留地がこの地にあった為、米軍の空爆を免れた為です。これらの家は関東大震災のあった1923年以降に建てられた戦前の建物になります。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
都心の一等地に残る老舗。
(2016年8月撮影)
こちらは東京メトロ有楽町線:新富駅そばにある「井筒屋」。ちなみにこの界隈は新富2丁目で、築地外国人居留地が設けられた際は、ここに貿易商人の客を当て込んだ新島原遊郭が設けられていました。いわゆる一発屋です。外国人居留地は交易の場として大きく発展することが予想されましたが、居住するのは医師や留学生、宣教師といった面白くない人間ばかり。女遊びで羽振りの良い貿易商人の客目当ての思惑はもろくも崩れ去ります。1871年、新島原遊郭は見切りが付けられ、その多くは新吉原(現在の吉原)へと撤退することになります。しかし、新富2丁目界隈は、その後も花街として賑わい、昭和初期で芸妓置屋80軒、料亭6軒、待合70軒だったという記録が残されています。
(2016年8月撮影)
マンサート屋根+銅板建築の現在では珍しい建物です。建物の前に建てられている通り名の標識には「平成通り」の文字が。
(2016年8月撮影)
こちらは中央区湊に残る建物です。○○株式会社の文字が見て取れます。奥には、月島へと架かる中央大橋が見えます。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
こちらは銅板の家をリノベーションしている珍しい物件です。
(2016年8月撮影)
中央区役所の近くにある、大野屋。雨どいや看板を支える土台に銅が使用されています。
(2016年8月撮影)
(2016年8月撮影)
京橋から見る都心環状線です。こちらはかつての築地川です。川を埋め立てて首都高速が敷設された様子がよく分かります。
(2016年8月撮影)
そんな京橋の片隅には、自動電話交換発祥の地の碑が残されています。
以上、3回に亘って、レポートしてきた 「かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院」シリーズ。
この界隈には、地理好きにはドキドキするようなスポットがいくつもあります。特に聖路加国際病院の周辺は、日本の夜明けを感じることができるごゆるり散策には持ってこいの場所です。
何気ない休日を、築地外国人居留地の散策に何日か当ててみてはいかがでしょうか。
以上、かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院③ でした。
かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院① の記事はこちら
かつての築地外国人居留地 聖路加国際病院② の記事はこちら
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