少しづつではありますが、荒川南岸を西へ進んでいます。

 

■小被(おぶすま)神社・・・埼玉県大里郡寄居町富田1508

 

 

 

立地は荒川に近いようですが河岸段丘上にあるので一応は安全な土地なのかな。

 

周辺はこんな感じです。

 

 

ここにも…

 

 

小さく延喜式内と書いてあります。

この周辺は古墳の大集中地帯でもあり、古代から生産の盛んな土地だったと思われます。

そんな土地に延喜式内社を置いていたということは近畿奈良政権がよほどこの一帯を重視していた証だと思いました。

 

 

祭神はニニギ、木花咲夜姫、彦火々出見、と。

1470年前、富田鹿※1が創建した、と。

 

拝殿

デカデカと菊の御紋

 

拝殿の鬼瓦

菊の御紋の手前に何か神紋らしきものが見えるのですが、何とも分かりません。

 

横から見てみましたが何とも分かりませんねぇ。

 

さてこれ以上は何もわからなくて、境内を見て回ります。

これは浅間

 

これは不明です。

 

これも不明です。

 

こちらは…

 

牛頭天王、スサノオでした。

 

そして4つのお社

これは近隣から合祀されたものらしく、内の宮、稲荷、白山、愛宕、神明でした。

 

さて猫の足あとサイトを拝見しますと…以下赤字

当地の豪族富田鹿が地主神である小被神を祀り、安閑天皇の時代に創建した。

延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「小被神社」とされています。

鎌倉時代には、武蔵七党猪俣党の猪俣時範の子、重任が无動寺氏と称して当地に移住、当社は不動寺境内に鎮座していたといいます。

天正8年(1580)に赤浜の村民が近くに移住してきたことから、当社を村境にあたる当地に遷座した。

古来より江戸期を通じ男衾郡の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年地内の諸社を合祀した。

 

富田鹿が、すでにあった地主神・小被(おぶすま)神を祀った、と。

この小被神が全く不明です。

富田鹿は鎌倉期初めの人物ですので、鎌倉期初めには小被神が祀られていたことになりますが正体は全く不明ですね。

 

祭神はニニギ、木花咲夜姫、彦火々出見

境内社は愛宕・稲荷・白山・内ノ宮、牛頭天王宮、天照皇大神・山神・山神・富士浅間、神明社

明治40年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀しています。

 

愛宕・稲荷・白山・内ノ宮、牛頭天王宮、山神・山神・富士浅間が明治期に合祀されたものなので、天照皇大神と神明社がそれ以前からあったということですね。まぁ天照=神明ですが。

 

富田鹿のほかに古代当社に関与した氏族は、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏であると考えられる。

男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和八年(841)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(845)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者であった。
 

壬生吉志は以前もご紹介しましたが、近畿大和朝廷が荒川流域を支配する際に送り込んだ植民地司令官(マッカーサー的な)です。ここ小被(おぶすま)神社はそんな壬生吉志の支配拠点として菊の御紋を与えられていた、のかもしれません。

では祭神のニニギ、木花咲夜姫、彦火々出見はどう見ればいいのでしょうか?

 

ニニギは一般的な日本神話では天孫などとされていまして、ここ小被(おぶすま)神社でも単なる近畿奈良政権の権威付けのためにニニギを持ち出しているのかな、と最初は考えました。菊の御紋もあったしね。

そこで久留米地名研究会・古川清久氏にお聞きしましたところ面白いお話を聞けましたので皆さんにも共有しますね。以下青字

 

1)小被(おぶすま)から産土(うぶすな)を連想する。産土は土地の神様という意味で関西から入ってきたニニギ以前の神様、という意味かもしれない。

ではその産土の神様とは一体誰のことなのか?

これは想像になるが、富田鹿の富(とみ)からトミノナガスネヒコ、なのではないかと考える。

確かに埼玉北部には天手長男(=ナガスネヒコ)がとても高い密度で分布しています。

また漢字表記があてにならないことを承知でネット検索で小被(おぶすま)語源を調べてみますと、大須磨と表記していた資料があるようです。※2

2)須磨は兵庫県・神戸の西の海岸部にあるが、これは大分から移動した地名の可能性がある。

 

よって小被(おぶすま)神社の祭神・ニニギは近畿大和朝廷が荒川流域を支配した際に持ち込んだものだろう。

 

ではここ小被神社とは関係ないですが、近畿大和朝廷によってつくられた祭神の構造を見てみましょう。

百嶋系譜で祭神をピックアップしました。青□

まず主祭神・ニニギの妃が木花咲夜姫で、そこに彦火々出見のかかわり方です。

彦火々出見は別名・猿田彦で、大国主とツーカーですので豊玉姫という妃も共有するという仲の良さ。この豊玉姫の母が速秋津姫、高木大神の長女にしてニニギの姉です。

彦火々出見は豊玉姫とくっつくことで高木大神一家のマスオとなります。一方、大国主は豊玉姫ときれいに縁が切れて市杵島姫とめでたくゴールイン、こちらも大幡主一家のマスオ化に成功しています。

その一方で大山祇一家が大幡主一家に偏重しないようバランスどりしたのが、木花咲夜姫とニニギ(高木大神一家)の婚姻でしょう。

絶妙ですな!

 

結局こういった下地作りが崇神にまでつながるのですから、現代の○ぶ○利権構造も推して知るべし、でしょう。

神代は別に神秘的でも何でもなく、単なる利権なんですよ。

いい加減目を覚ませ、と言いたいですね。

 

 

※1富田鹿は、鎌倉期初めの武蔵国児玉党の武士・富田親家のことと思われます。

ここだけとりあげれば、「富田をトミノナガスネヒコに繋げるのは強引だろ」と言われそうです。

でも冷静に考えれば富田とは「富(とみ)の田んぼ」ということなので、別にかまわないかな、と感じます。

 

※2以前のレポート阿豆佐味(あずさみ)天神社でも書きましたが、関東は東北地方の一部です。

(こんなことを言うといつも怒られるのですが)関西出身の私から見れば、東京都区部以外の東京はどうも東北弁のニュアンスを感じます。ですので大須摩(おおすま)を東北弁風に発音すると「あンズまぁ」的な発音になるはずです。(実際はもっときついかも…)

「あンズまぁ」→「おンズまぁ」→「おンブズまぁ」→「おぶすま」と変化したのではないか、と。

 

あ、いやいやちょっと思い出したことがあります。

若いころ都心部で働いていて昼休憩で外の駐車場でボケーとしていたところ、近所のおばあさんが私にぶつかる勢いで突進してきました。

ぶつかる寸前で私が避けたのですが、そのまま立ち去るおばあさんが一言「とんでもねえずら!

ちょっと意味不明だったので、その後そのセリフは事あるごとに面白おかしく再利用させていただきました(笑。

(ま、それはいいとして…)

年代が古ければ東北弁を使う人間が都心部に住んでいる、ということはつまり東京は東北の最南端(どんづまり)に過ぎないのではないか?と感じた次第です。