狭山丘陵南麓をどんどん西へ進みますよ。

 

■阿豆佐味(あずさみ)天神社・・・東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷宮前1008

 

 

空堀川を遡上してきた結果、空堀川は狭山丘陵へと消えて代わりに狭山丘陵の西橋から流れ出している残堀(ざんぼり)川を遡上します。残堀川はこれまでと違って、武蔵野台地を斜めに横切り多摩川へと合流していますので別の水系ということになります。

ちなみに、このように武蔵野台地を斜めに横切っている川はほかにありませんので、ちょっと特殊だと言えます。

さて以前、同名の阿豆佐味天神社をレポートしたことがあります。地図の下に見える鳥居マークがそれです。今回ご紹介する阿豆佐味天神社は地図の左上です。

江戸時代以前、武蔵野台地は不毛の雑木林が広がる無人の荒野でした。家康がやってきて多くの旗本に武蔵野を領地として割り振ったため武蔵野の開発が進みました。狭山丘陵だけは古代から開発されていて村々があったのですが、その村がそのまま南へ延びるように開発されて畑地が増えていったのです。

その流れで狭山丘陵麓にあった阿豆佐味天神社が南へ分社された、という流れなのです。まっすぐ南へ分社されたのではなく残堀川に沿って東南へ分社されたのを見ると残堀川が重要河川だったのが分かりますね。

 

この地図を見ると阿豆佐味天神社から南の残堀川へと伸びる参道のような道路が見えますので、残堀川との結びつきがよく分かります。

 

 

これは鳥居から南を見た図です。まっすぐ残堀川へ参道が伸びているのが分かります。

 

鳥居をくぐって進みます。

 

 

拝殿

拝殿の神紋は菊の御紋です。ここにまで近畿奈良政権の手が伸びていたのですね。

 

本殿

千木、鰹木はありません。神紋は大幡主の三つ巴。

 

本殿のわきに

 

「古代はあづさと呼ばれた」と。

 

登ってみましたが、何もわかりません。

 

さらにわきには

 

 

左から雷神社、八幡社、熊野社でした。

 

 

稲荷でした。

 

む~~、由緒書がほしい…。これじゃなんにも分からん!

東京都神社庁によると祭神は少彦名、スサノオ、大名貴となっていました。

少彦名を主祭神にして菊の御紋はないでしょう。この両者が整合していません。

菊の御紋を正面に挙げている以上、近畿奈良政権・藤原が堂々と入っていることは間違いないです。ということは少彦名、スサノオ、大名貴が古い時代の氷川の祭神だろうと推測します。本殿屋根の大幡主の神紋がそれを暗示しています。

しかし、少彦名、スサノオ、大名貴が古い世代の神様できれいにそろい過ぎているのでこの3柱は復刻版だと思います。

 

つまりここの初期においては氷川でスサノオ、クシナダ姫を祀っていたんじゃないのかな。

その後近畿奈良政権の支配下に入り菊の御紋が正面に取り付けられた。

さらにその後、近畿の荘園支配が崩壊し武家の時代がやってきて少彦名、スサノオ、大名貴が復刻された、と想像しました。

 

猫の足あとサイトより以下引用します。

「阿豆佐味天神社の創建年代等は不詳、上総介高望王が寛平年間(889-898)に再建したと伝えられ」

高望王は9世紀の人物で、上総介として任地に土着した、と。上総は房総半島先端ですので、ここ武蔵の大地とは離れていますが荘園のような領地としてここ阿豆佐味天神社付近を支配したのでしょう。

高望王の父方を辿れば数代で天智に繋がっています。母方は橘氏。

高望王の子孫は関東に土着し武家へとなります。

 

Wikiに祭神が載っていました。

奥宮、神明宮、八幡社、熊野社、雷神社、正一位稲荷神社、厳島社、須賀神社、甲子社

(奥宮があったとは、不覚…)

奥宮の祭神が分からないと話にならないのですが、しょうがない。

神明は天照

熊野は大幡主(と熊野ふすみ=イザナミ)

雷はたぶん崇神(=中筒男)、拝殿の菊の御紋はこのためか※1

稲荷は伊勢外宮様

厳島はイチキシマ姫(=弁天)

須賀はスサノオ

甲子社は不明

ここもオールスターといった感じで決め手がありませんね。別の角度から見てみましょう。

 

阿豆佐味天神社の周辺をアップにしますと左下に安住町広場とあります。

 

現地広場の倉庫に安住町とあります。

考えるに、もともと「安住」という表記があってそれを「あんずみ」と発音する※2うちに「あずさみ」へと訛り変化したのだと思います。それを当て字表記したのが「阿豆佐味」だと思いました。

ではもともとの「安住」とは何か? これは好字令(713)の時に「あずみ」という発音を「安住」と表記したのだと思います。

つまり「あずみ」という呼び名は713年以前からあったと言えます。

 

「あずみ」といえば海人族の安曇磯良(上筒男)です。

安曇磯良はウガヤフキアエズと鴨玉依姫の息子でいずれにしても大幡主組の構成員と言えます。

安曇磯良(上筒男)は大幡主よりも若い世代です。そんな安曇磯良の一派が近畿奈良政権の先兵として多摩川沿いにある武蔵国府・武蔵大國魂神社から残堀川※3をさかのぼって(武蔵野台地を斜めに横切って)ここ狭山丘陵に入植した、というのが自然な考え方ではないでしょうか。

崇神も入っていますので当然藤原一門の認可の上でやっていると思います。

 

ですが、ここが近畿大和政権の独壇場というわけではなく、大幡主、スサノオが小さく含まれている点から、やはり少なくとも開発初期においては氷川系の認可のようなものがあったのかもしれません。

 

いずれにしても最終的には狭山丘陵南麓に近畿奈良政権の傘下コロニーが出来ていた、その象徴がここ阿豆佐味天神社と考えます。

 

 

※1柳瀬川流域の神社を見てきて神紋は大概大幡主(か息子の豊玉彦)だったのですが、ここは大幡主の神紋ではなく近畿奈良政権の神紋・菊があるので府中・武蔵大國魂神社の影響下にあると考えるのが妥当だと思います。

 

※2

関東平野は東北地方の南のどんづまりです。かなり古い時代に東北からどんどん人が流れ込んだので、もともと関東に住んでいる人は東北と同じ文化圏だと思います。ですので、江戸期までの江戸方言(江戸市街地は別)は東北弁と同じだったと思います。ズーズー弁です。

そのズーズー弁で上記の「安住」を発音すると「あんすみ」とは発音できず「あンざみぃ」みたいになるはずです。ズーズー弁は口をほとんど開けずにしゃべるので「あンざみぃ」→「あっざみ」→「あずさみ」と変化した、と想像しました。

 

※3残堀川と府中・武蔵大國魂神社の関連についてはまた後に触れます。