では吉見百穴遺跡に併設されている吉見町埋蔵文化財センターを訪問します。

 

■吉見町埋蔵文化財センター・・・埼玉県比企郡吉見町北吉見321

 

館内資料によればかつては横見と呼ばれる地だったが、昭和になって吉見とされたようです。

草部吉見と関係あるのかな、と思ってたけど違った??

 

ここ吉見百穴とは山の反対側(東)には同様な黒岩横穴墓があり、吉見百穴同様の大規模な墓地だそうです。

 

Wikipediaによれば、吉見百穴は横穴が200以上あり古墳時代後期(6~7世紀)に造られたものであり、凝灰岩の岩肌に掘られていて緑泥片岩の蓋がはめ込まれている(現在は蓋を外した状態)…とのこと。

 

黒岩横穴墓は吉見百穴よりも大規模であるが発掘がなされておらず、吉見百穴と同じく古墳時代後期(6~7世紀)につくられたもの、とのことでした。

 

吉見百穴と黒岩横穴墓は同族がここ吉見丘陵の東西に分かれて入植した、ということでしょうね。

吉見百穴に葬られた人々は吉見丘陵の西側一帯を支配し、黒岩横穴墓の方は吉見丘陵の東側(荒川)を支配したのでしょう。

6~7世紀ということですので、入間川北側に百済・高句麗の移民が集められたという時期と合致しています。彼らは武蔵国造の乱の結果として割譲されたこの周辺地域に近畿奈良政権の入植者として入った部族だったのではないでしょうか。

 

時代を追って考えましょう。

館内資料によりますと、まず縄文・弥生には人がちゃんと定住していたようです。※1

古墳期4世紀初には巨大前方後墳※2(三ノ耕地遺跡)、6~7世紀には吉見百穴、黒岩横穴墓、かぶと塚古墳が作られた。

 

ここが面白いです。

私は武蔵大國魂神社そばの熊野神社古墳を見てきていますので、4世紀初に巨大前方後墳が作られたというのがとても早いな!と感じます。

つまり4世紀初にできた巨大前方後墳というものは、どう考えても武蔵大國魂神社(7世紀)勢力のものではなく、武蔵国造の乱以前ですので荒川を遡上してきた近畿奈良勢力でもなく、当然の帰結として群馬方面か秩父方面から下ってきた勢力以外には考えられません!

なぜそんなことが言えるのか?

埼玉古墳群をはじめとして、荒川周辺にある古墳の石材が秩父産の緑泥片岩であったからです。

古墳の石室の材料が被葬者の出自と関係深いというのは、近畿の古墳の石棺の石材が九州・宇土半島産のものであるというケースから考えてもはや常識といっていいと思っています。

 

話を戻すと、吉見百穴の蓋の石材が(秩父産の?)緑泥片岩であるとするならば、吉見百穴のみならず黒岩横穴墓も秩父族の墓所だったといえるのではないでしょうか?

 

館内資料によりますと、縄文期晩期にはすでに三ノ耕地遺跡で水場を整えた遺跡が発見されています。縄文期ですでに定住していた可能性がありますね。石剣、土偶など出土したようです。

 

では吉見町の歴史を年表にして書き出してみましょう。

●紀元前30000年 吉見山地南端に集落

●紀元前3000年 遺跡数・規模が増大

●紀元前1000年 三ノ耕地遺跡の水場遺跡

         遺跡数激減

●紀元前100年  埼玉で稲作開始

●1世紀     集落できる

●3世紀     方形周溝墓の流行

●4世紀     吉見町内で遺跡激増

●5~6世紀   群集墓の流行

●6世紀     横穴墓(吉見百穴)の流行

●7世紀     東山道武蔵道が通過

●8世紀     須恵器の窯でき、国分寺瓦生産する

●10世紀    延喜式内社3社を文献で確認できる

●12世紀    源範頼、比企氏の活躍

 

あとは個別となりますが、吉見百穴のすぐ東にかぶと塚古墳がありその解説も載せておきます。

6~7世紀の直系30m弱二段積みの円墳で葺石はない。その横穴石室の石材が凝灰岩と緑泥片石という、秩父由来を想像させるものでした。

下図は屋外で展示されていた実物です。

 

まぁ、展示物解説では触れていませんが完全に秩父由来だと思います。

埼玉北部取材の後に秩父へ向かいますが、これは楽しみになってきたゾ!

 

 

※1ここが武蔵野台地、入間台地と違う点ですね。やはり入植がスムーズに進む土地だったのですね。

 

※2ちょっと思いついただけなのですが、前方後円墳は太平洋側から入ってきて、前方後墳は秩父・群馬方面から入ってきたんじゃないだろうか、と…