入間川河口に位置する川越氷川神社から入間川を遡上し、支流の霞川をさらにさかのぼって青梅(多摩川が武蔵野台地に流れ出る広大な扇状地の扇頂部)に達したのが前回までのストーリー(?)でした。
その結果を簡単にまとめておきます。
霞川流域下流部は北岸にある加治丘陵の名前の通り鍛冶業をもって奈良期の初めに入植したらしい(イスラエル系、スサノオ・金山彦)と推察されました。
遡って霞川上流部(青梅市域)では阿蘇氏が濃密でした。下流域では全く見られなかったのに!
青梅市郷土博物館の展示資料から、このエリアには弥生期から各民族の入植が進み、それが霞川上流に向かって進んでいったらしいことも分かりました。
この資料と神社の祭神の分布から、奈良期になって後から入植したのが阿蘇氏なんじゃないかと想像するに至りました。青梅は阿蘇氏が開発した場所、かもしれません。
そういったことで加治丘陵以南・青梅周辺まで調査が終わりましたので、次は入間川を越え群馬県境に至るまでのエリアの神社を探索しようと計画しています。
行き当たりばったりで神社を訪問するのではなく、まずはネット情報で神社の祭神・歴史を見て取材するかどうかを取捨選択することになります。
重要な点ですが、入間川以北~群馬県境は私が今まで見てきた武蔵野台地とは地形が全く異なります。
武蔵野台地は、ほとんどの川が荒川へと注ぎ、歴史的にも江戸期まで開発が進んでいなかったという特殊事情から、柳瀬川流域に沿って調べればよかった訳です。線(川)をたどっていけばいいわけです。
ところが入間川を北へ越えると武蔵野台地とは違って、数多くの川が縦横に流れ台地を侵食したため水場と高台が混在する格好になっています。当然にも、弥生時代にこのエリアには多くの生活遺跡、古墳時代には多くの古墳が成立しました。この川(浅い谷)沿いに入植したのだと思います。
ところが中世に入って関東武士の動乱の結果、弥生期の祭神が失われた、あるいは上書きされた、あるいは移動した、と思われる神社が半数を軽く超える数で見受けられました。
(市域ごとに神社の詳しいデータを公表していただいている猫の足あとサイトには一方ならぬお世話になっております)
まずは南関東の地図をご覧ください。
これまでは半透明青のエリアを調査してきました。
そしてこれからは半透明黄色のエリアへと進みます。
作業としては、猫の足あとサイトに掲載の各神社の祭神を見て古代の痕跡を少しでも残していると思われる神社をピックアップし訪問することになります。(それでも数は多いですが…)
ピックアップした神社をGoogleMap上にプロットしたものが下図です。
分布に偏りがありますが、これは初期の祭神が消されてしまっている神社を取り除いた結果であって、神社は総数でこの3倍近く存在しおそらく分布も上図ほど偏っていないと思います。
(左端の秩父がまた興味深い場所ですので、いずれ調査に向かいます)
ここまでお読みになったアナタ!
「なんでこんな辺鄙なエリアに関心持つの??」
って思ったでしょ?
以前レポートした埼玉県立歴史と民族の博物館を思い起こしていただきたいのです。
以下の図表はその時に掲載したものですので、それをご覧いただきつつ簡単に振り返ります。
上図は荒川流域における弥生土器の分布です。弥生時代後期の状況です。
荒川の西側にご注目ください。
■が弥生町式土器、■が吉ヶ谷式土器で、この2つは太平洋岸を東上して東京湾から上陸したのだと思います。荒川と入間川を境界としてはっきりすみわけしています。
■は武蔵野台地東端(北限は入間川)と大宮台地全体に分布しています。
■は武蔵野台地のフチの小山川と入間川に区切られたエリアに分布しています。
その西側に分布している■が樽式土器。これは素人の見た目前出の2種とそんなに変わらないのですが、太平洋側ではなく群馬の西のどん詰まり碓氷峠方面から入ってきたものです。
中央高地から入ってきたものと太平洋側から入ってきたものが出くわしたのが小山川ということになります。
一言でいえば異民族の衝突です。
さて、今回入間川北方地域の調査対象として選んだ神社群は■の分布するエリアです。
精密な調査をやるとすれば、吉ヶ谷式土器出土場所と神社を照らし合わせることになると思うのですが、それはやりません。
土器に制作者の名前が書いてあるわけもなく、神社の祭神も中世の時代にずいぶん変化しているので弥生期当時の祭神が残っているケースが稀である、という理由からです。
ならば遺跡・遺物との整合性はここまでとして、あとは弥生期の祭神が残っている神社を調査する方が理にかなっている、と考えました。
そういった考え方を元に、これより入間川北方の神社調査へと進みます。
楽しみにしていてください。
私も楽しみです。