前回の入間市博物館ALITから少しだけ移動し、今回は下流側にある狭山市立博物館を訪れました。

展示物は狭山市内のものとなります。

 

■狭山市立博物館・・・埼玉県狭山市稲荷山1丁目23−1

 

 

 

まぁ博物館の立地は意味ないですが念のため…

 

 

上図は狭山市内の上広瀬古墳の模型(上から見た図かな?)です。

狭山市内には上広瀬古墳群、笹井古墳群、稲荷山公園古墳群といった古墳があるそうです。

造形的に洗練されていないので初期の群集墓だと思います。(武蔵大國魂神社のレポートでも書きましたが)近畿奈良政権の影響の及ぶ以前の狭山市内に奈良時代初期に入植した民族コロニーのものだと想像しました。

初期入植組がどういった人々だったかは地名や周辺神社に僅かに残された祭神の痕跡を見ていくしかありません。

 

上図は狭山市域の神社(白数字)の分布をGoogleMap上で検索し、埼玉県サイトの狭山市遺跡地図から得られた遺跡の位置を黄色文字で追記したものです。

黄色線で囲われた領域がおそらく集落の範囲を想定しているものでしょう。アルファベット文字の位置が遺跡の場所です。

 

遺跡は見事に入間川の洪水の危険のある沖積平野部分を避けて、河岸段丘上に作られているのがよくわかります。

それに比べて神社の方はというと、09、10、11、13、14、12が入間川のすぐそばに立っています。この6つは他と性格が違うのでしょう。

奈良時代になってこの地域に入植したコロニーは、コロニーのすぐ傍(域内)に祖先崇拝のため神社を建てたと思います。コロニーから外れて建っている神社は後世のものかもしれません。※1

 

入間川の西岸はというと河岸段丘の縁に整然と並んでいますね。土地利用効率が高いということを表しています。ここより少し上流の加治丘陵では鍛冶業のためと思われる集落が整然と並んでいましたが、こちらも遺跡だけは同様です。

残念ながら

遺跡と神社の整合性が薄いですが…では順次見ていきましょう。

 

■02とA

02は小さな祠の稲荷です。むしろ01が関連するかもしれません。

01は梅宮神社(埼玉県狭山市上奥富507)です。梅(埋)なので墓地でもある?というわけでもなく、天満(菅原道真)でもなく。この神社の神紋は橘でした。

久留米地名研究会・古河清久氏によれば「あくまでも橘は石清水八幡系の紀氏の系統のもので、基本的には豊玉彦=ヤタガラスの系統を意味するものであり、その配下で活動していた一派にニギハヤヒの系統があったという意味なのです」

という解説でした。

初心にはむつかしいですが百嶋神社系譜では、豊玉彦(大幡主の息子)とオキツヨソタラシ姫(ナガスネヒコの妹)との間に武夷鳥(=兄多毛比えたけひ)が生まれたように、豊玉彦と前玉姫(=木花咲耶姫、大国主の妹)との間に神主玉命が生まれ、これが橘一族の祖となったとされています。

神主玉命を祀る神社は非常に稀で、古川氏は茨木県に一社紹介されています。

武蔵野台地では菅原道真(武夷鳥の子孫)をまつる天満は多いですが、橘や神主玉命は見かけません。

奈良時代初期にレアな一族として橘一族がここ狭山市に上陸したのか、橘諸兄(684~757)の全盛期に設けられた荘園なのか…

狭山市サイトによれば祭神はニニギ、木花咲耶、彦火々出見、大山祇となっています。橘と関係ないですねぇ。

木花咲耶と大山祇は親子なので関係あるように見えるのですが、木花咲耶は江戸期の富士山信仰による場合が多いのでなんとも…この4名は接点がわからないですね。

<要現地取材>

 

■04とB

04は田中稲荷神社ですがこれよりも近所の金山神社(埼玉県狭山市上奥富字梶屋429)の方が面白いです。石の祠しかないのですが由緒書はちゃんとあって祭神は金山彦、金山姫(埴安姫)とあります。梶屋、金山彦と完全に鍛冶業の祭神です。

群馬から荒川を下ってきたコロニーなのかもしれません。

 

■06とC

06は峰稲荷神社(埼玉県狭山市狭山5−21)ですが赤く塗られていない祠です。それ以上はわかりません。 

すぐそばの峰愛宕神社(埼玉県狭山市狭山9−7)境内に石の祠があり、その裏面には意味深な神紋が…

<要現地取材>

 

■08

ちょっと変わってるのが08三柱神社(埼玉県狭山市祇園13)この三柱とは祭神のことでしょう。狭山市サイトによれば祭神は天御中主(=白山姫)、高皇産霊(=高木大神)、神皇産霊(=大幡主)。百島神代系譜でも古い世代の神々です。ちょっとあまり見かけません。注)カッコ内は百嶋神社考古学解釈

天御中主と神皇産霊は血のつながりがありますが、高皇産霊だけ異民族です。

後に神皇産霊(=大幡主)の息子・豊玉彦と高皇産霊(=高木大神)の娘・豊秋津姫が結ばれ、血縁が生じますのでその末裔がこの三柱神社を祀ったのでしょうか??

 

■10、11、13、14、12

これらは奈良期の遺跡とは関係ないので後世に建てられた神社だと思いますが見ていきましょう。

10は水天宮(埼玉県狭山市入間川3丁目31)武蔵野台地は乾燥している反面洪水が多発していましたので、洪水が起こらないようにとの信仰でしょう。福岡県久留米市の水天宮とは直接は関連なさそうです。

11は入間川大国神社(埼玉県狭山市入間川3丁目22)狭山市サイトによりますと江戸末期に御嶽教協会として作られたそうで、祭神が国常立、大己貴、少名彦と御嶽神社でよく見る祭神となっています。奈良時代にさかのぼる要素はありません。大国主を祀っているのに千木・鰹木があって変だなと思ったんだよね…

13狭山八幡神社(埼玉県狭山市入間川3丁目6−14)ここは独立丘に築かれた神社で摂社末社も多いので別途レポートします。

<要現地取材>

14入間川諏訪神社(埼玉県狭山市入間川4丁目2−41)は小さい祠の神社でそれ以上は不明です。

12は白山神社(埼玉県狭山市祇園4−2801)小さい社のみの神社でそれ以上は不明です。

この5つは入間川の渡河地点にも当たっており中世の新田、足利のせめぎあいの重要ポイントだったと思います。

 

■15とKJ

15は稲荷山稲荷神社(埼玉県狭山市入間川4丁目24−24番付近)小さい祠のみで祭神は豊宇気という以上は不明です。

 

■16

16は第六天神社(埼玉県狭山市鵜ノ木20 )祭神は面足(おもだる)命、惶根(かしこね)命。

面足は金山彦。面足と惶根は夫婦とされていますので惶根は埴安姫です。この夫婦の組み合わせは群馬から下ってきたのでしょう。あるいはこの周辺で盛んだった鍛冶業との関連あるかもしれません。

 

以上が入間川東岸で、以下西岸へと進みます。

西岸にはあまり整然と神社が並んではいません。遺跡群との関連性が薄いのです。これは中世の動乱の影響かなと考えます。ですので以下の神社群も中世の神社という可能性はありますが…

しかし西岸には遺跡群はきれいに並んでいて奈良期初期には入植者が多かったことを示しています。

 

■17

17は柏原白山神社(埼玉県狭山市柏原2693)祭神が白山姫であること以外は不明です。

 

■22

22は武蔵野神社(埼玉県狭山市広瀬台3丁目26−1)詳細は不明です。

 

■18

18は廣瀬浅間神社(埼玉県狭山市上広瀬983−2)祭神は木花咲耶、ニニギ、大山祇。

木花咲耶は江戸期に入ったと想定し、もともとは大山祇とニニギだったと想定しました。かつては奈良政権の傘下だったと想像しました。

 

■19

19は根岸白髭神社(埼玉県狭山市根岸2丁目25−23)主祭神は猿田彦、そのほかの祭神は火産霊(=金山彦)、奥津彦(=大山クイ、鹿島大神と市杵島姫の息子にして、崇神の父)、奥津姫(大山クイの姉)

金山彦と奥津彦、奥津姫は系統が異なりますので、別々のタイミングでここへ入った祭神だと思われます。金山彦の方が先だろうと想像しました。

金山彦は鉱物資源に関連し、入間川でとれる砂鉄を利用し鍛冶業をするために群馬から入り込んだ人々が持ち込んだ神様かもしれません。

 

■20

20は廣瀬神社(〒350-1319 埼玉県狭山市広瀬2丁目23−1)は延喜式神名帳(927)に記載されていますのでそれ以前の建立です。主祭神は若宇迦能売(わかうかのめ)となってますが宇迦能御魂(=伊勢下宮様)でしょう。そのほかの祭神は神火産霊(=金山彦)、木花咲耶、八衢彦(やちまたひこ)、八衢姫、久那戸(くなと)となっています。神火産霊、木花咲耶は明治期に合祀されたものです。

問題は八衢彦、八衢姫です。八衢彦は一般には猿田彦とされますが百嶋神社考古学ではナガスネヒコです。八衢姫も同様に一般にはアメノウズメとされますが百嶋神社考古学ではオキツヨソタラシ姫(ナガスネヒコの妹)です。

八衢彦、八衢姫は武蔵府中熊野神社でも発見されたレアな祭神です。

さらに久那戸(=ナガスネヒコ)とくれば完全にナガスネヒコの近親者で固められた神社だとわかります。つまりここ廣瀬神社は設立当初はナガスネヒコを祀る鷲宮だったのじゃないかと考えます。当然設立したのは兄多毛比(=えたけひ、オキツヨソタラシ姫の息子)だと想像します。

<要現地取材>

 

■21

21は養蚕神社(埼玉県狭山市広瀬東2丁目39)で文字通り武蔵野で盛んだった養蚕業を表したものでしょう。

 

長きにわたりましたが以上となります。

ネット上の情報をもとに概観したわけですが、アウトラインはつかめたように思います。

奈良期初期に無人の入間川流域に入植した様々な民族コロニー、そのうち僅かに痕跡を残したと考えられるものもありましたし、完全に後世のものと思われるものもありました。中世の変転は激しいので致し方ないです。

奈良期の痕跡を残したと思われるものをピックアップし今後実地レポートしたいと思います。

 

今回は狭山市内に限って考察しましたが、狭山市サイトの中に神社のデータベースが揃っており大変助かりました。

実際に現地に行ってみても祭神すら分からないことが多く、地域の重要な神社を見逃している可能性もある中で狭山市サイトには助けられました。

感謝!

(ほかの自治体でもやって!)

 

 

※1狭山市内の入間川沿岸はのちの時代に新田義貞、足利持氏による戦乱に関係する場所で、さらに後には関東管領上杉氏や後北条氏や家康によって関東が広く支配を受けた影響も受けています。奈良時代に入植した民族も時代の変転の中で消滅したり転居したりで、初期の痕跡は残ってないかもしれません。

足利持氏は群馬の新田を牽制するために入間川東岸に数年布陣し新田を駆逐したそうです。でもその割には入間川東側に新田義貞を祀る神社が多いんだよね。足利持氏なんて見たことないです。

武蔵野台地の人々から見れば足利持氏なんて栃木からわざわざ出張ってきた山猿程度だったかもしれませんね(笑