古墳は何も語らない…などと普段から言っているのですがたまには古墳に行ってみます。

 

■武蔵府中熊野神社古墳・・・東京都府中市西府町2丁目9−5

 

 

 

前回レポートしました谷保天満宮と武蔵大國魂神社の中間に位置しています。

谷保天満宮、武蔵府中熊野神社古墳ともに古代の残堀川沿いにあると言えます。東京湾から多摩川を遡上してきたとき、多摩川の川原からいきなり上陸すると洪水の危険があるので、支流の残堀川をちょっと遡上した地点から上陸するのは賢明です。

 

谷保天満宮のレポートにも解説しましたが、武蔵大國魂神社周辺の歴史を振り返ってみましょう。青字は武蔵大國魂神社に併設の資料館によるものです。

・30000年前:人が立川段丘面に住み始める

・2300年前 :多摩川沿い低湿地で生活始まる

                  縄文時代からの漸次的移行

・4世紀       :台地上に集落できる

・5世紀       :台地上に集落なくなる

                    実質的な縄文時代の終わりかな

・6世紀       :府中崖線に小古墳、崖線と低湿地に集落

                    これが稲作ベースのコロニー誕生でしょうね

                    6世紀なので遅いです

・7世紀前    :小古墳の築造が終了

・7世紀中    :上円下方墳(武蔵府中熊野神社古墳)つくられる、台地上に村できる

                     ここから本格的な近畿大和政権の出先機関として機能か?

・7世紀後    :国司館できる、東山道武蔵路・国分寺できる、台地上に井戸・町(竪穴住居)できる

       この頃に武蔵大國魂神社が出来たのでは?

・8世紀前    :武蔵守が任命される、武蔵国衙できる

・8世紀中    :国分寺完成、武蔵の国が東山道から東海道へ

       ここがピークでしょうね

・9世紀中    :水害、富士山噴火、大地震

・10世紀前  :争乱はじまる

       近畿政権のコントロールを離れてしまったようです

・10世紀末  :国衙が衰退消滅、竪穴住居減少

・11世紀     :竪穴住居からカマドが無くなる

・12世紀     :台地上で人間の痕跡が消える

この後は在地武家勢力の活動が盛んになり、彼らの手によって六所宮(武蔵大國魂神社)が守られていったようです。

 

いわゆる弥生文化は、当地(多摩川沿岸)では6世紀から始まったようです。

その初期の弥生文化が群衆墓を作り、その後7世紀中(白村江の直前?)になって新勢力が西からやってきて武蔵府中熊野神社古墳、国司館、武蔵大國魂神社(当時は六所宮)を作ったという流れです。

 

つまり武蔵大國魂神社周辺の弥生時代の進行には3段階あって

1)6世紀~7世紀前…小古墳を築造した時代<鷲宮(兄多毛比)のグループか>

2)7世紀中…………武蔵府中熊野神社古墳を築造した頃<近畿からの新たな入植者か>

3)7世紀後…………国司館、武蔵大國魂神社を築造した頃<上と同じグループ>

という風に分類できると思います。

 

6世紀~7世紀前に鷲宮が中心になって開発した多摩川北岸地域に小古墳を築造する時代があり、その後に新勢力(おそらく近畿奈良政権)がやってきて武蔵府中熊野神社古墳、国司館、武蔵大國魂神社を建てたのだと思います。

 

武蔵府中熊野神社古墳に葬られた人物はおそらく7世紀前にここへやってきて、氷川系の作っていた小古墳をやめさせ7世紀中に亡くなったのではないでしょうか…というところまで想像していました。

 

さてその武蔵府中熊野神社古墳がこれです。

現在は、古墳が出来たばかりのころを再現してあります。

 

上が丸く下が四角い二段構成の古墳で上円下方墳というそうです。

古代中国の思想を反映した形だそうですが、はてさて…

 

隣接している資料館に入ってみました。

 

武蔵府中熊野神社古墳の近く・下流側にある小古墳群では埴輪が見つかっていますが、ここ武蔵府中熊野神社古墳では埴輪は出ていません。両者は異民族・別のルーツの民族と思われます。

 

横穴式古墳です。

石室の復元模型も見ましたが、この写真のようにかなり精密に加工されています。適度な自然石を選んで何とか積み上げたというようなものではなく、精密に加工して積み上げたものだとわかりました。

近隣の古墳群とは全く異なる異民族が葬られていると思いました。

 

館内の年表資料によると、西暦600年前後に畿内では大型古墳築造をやめ小型特殊古墳を作り始めるという変化があり、ここ武蔵府中熊野神社古墳はもろにこの流れに相当していますね。

やはりここは近畿大和朝廷の出先機関責任者が葬られたと考えるのが筋だと思います。

 

これは古墳に残っていた「剣のこじり金具」

中央に七曜紋があるというのですが、これは七曜紋といっていいのかな? 単なる模様とも言えそうで微妙やな…

七曜紋は古代中国由来で、日本では千葉氏が使っていたとも言われますが、なんとも…

これが七曜紋

 

この古墳に眠る者が近畿大和朝廷から派遣された人物だと思うのですが、古墳の築造が7世紀中頃。倭国が白村江の戦いに敗れたのが663年、その直後に半島から移民が大量に押し寄せ関東に移住したという記録があります。半島からの難民にとって、まだまだ地盤の固まり切っていない多摩川沿岸はいい入植地だったかもしれません。7世紀末には武蔵大國魂神社周辺に寺、街道、街が出来上がってゆくのを知って、外部からの新たな入植者集団の存在を想像しました。

 

さて次に、武蔵府中熊野神社古墳に隣接している神社も紹介しておきます。

熊野神社です。

 

 

幣殿の向こうに古墳が少し見えています。

 

祭神はスサノオ

 

 

扁額の縁の模様がラーメンぽいのはなぜ?

 

神紋は大幡主

熊野ですので大幡主で正しいですね。

 

奥が本殿を格納した覆屋ですね。本殿を見ることが出来ないので千木、鰹木の有無は不明です。

 

本殿の後ろが古墳になっています。

古墳、本殿ともに南向き、多摩川の方を向いています。

武蔵大國魂神社の鳥居は北向きで、多摩川から上陸し北方へと進出する意図を感じさせるもので、祖先崇拝というより開発・進出の象徴だと思います。

ですが、ここ熊野神社・武蔵府中熊野神社古墳は「この地にやってきて骨を埋める」という開拓者としてのありようとは別に、自分の出自ややってきた方角を示すために南向きになっていると思いました。

 

さて、そこでちょっとおどろいたのですが…

拝殿向かって右側に

 

八衢(やちまた)比古、八衢(やちまた)比女

初めて見た…

通説では八衢比古=猿田彦、八衢比女=アメノウズメですが、

百嶋神社考古学では八衢比古=ナガスネヒコ、八衢比女=オキツヨソタラシ姫(ナガスネヒコの妹)なのです。

ビックリですよ!!

なぜここにナガスネヒコ兄妹がっ! 困った…

 

確かに東国三社のひとつ・息栖神社にはクナド神、天鳥船としてナガスネヒコが祀られていましたし、栃木方面には星宮が大量にあるのでナガスネヒコを信奉する人々が関東に流れ込んでいると久留米地名研究会・古川清久氏から伺っておりましたが…

ここ多摩川やで?

確かにナガスネヒコ死後、オキツヨソタラシ姫と豊玉彦の間に生まれた武夷鳥(=兄多毛比)が関東に派遣され鷲宮、氷川を建設しました。武夷鳥(=兄多毛比)は関東の、しかも荒川沿いの開発をやってのけた英雄です。

ですので武夷鳥(=兄多毛比)が母・オキツヨソタラシ姫と悲劇の伯父・ナガスネヒコをここ関東で祀ったとしても不思議はないのです。

 

武蔵府中熊野神社古墳に葬られた人物は明らかに近畿大和朝廷の関係者(あるいは大陸・半島由来)です。そして近畿大和朝廷の関東侵略の手先でもあります。

その侵略の橋頭保である武蔵大國魂神社のすぐそばに寂しげに置かれた坪宮の祭神が兄多毛比(えたけひ=武夷鳥)だったのです。

つまりはここ武蔵府中熊野神社古墳も、もともとは鷲宮勢力の小古墳が群なす多摩川北岸に割り込んできた新参者に過ぎず、鷲宮勢力の協力を得て武蔵野の顔役みたいになることが出来た…じゃないかなと想像しました。