今回のレポートは神社ではなく狭山が池について、です。

今回の狭山が池は厳密には柳瀬川流域ではないのですが、広義では古多摩川の残され川的なものである点では同じなので同シリーズで進めますね。いずれにしましてもここが柳瀬川系の最上流部となります。

 

■狭山が池・・・東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎712

 

場所は前回の狭山神社のすぐそばです。

 

この狭山が池周辺の地理はちょっと変わっています。

上図で分かりにくいですが、武蔵野台地は青梅(上図の左上)を頂点とする扇状地です。かつて青梅から無数の水路が東に向かって流れ下り、火山灰土壌に吸い込まれて雑木林の覆われた不毛の大地となっていました。

現在の道路の多くが古来からある水路に沿って作られたため、道路網も青梅から放射状に延びているように見えるのです。

 

ところが上図を見ていただければ分かる通り狭山が池周辺だけは、なぜか青梅を起点とする放射状道路の流れとは違う道路のつくりになっているのです。

と言ったことを一旦記憶にとどめていただいて、現地をご案内します。

 

これは残堀川にかかる橋から上流を見た図です。この先に狭山が池があります。行ってみましょう。

 

はい、ここが狭山が池から残堀川が流れだしている地点です。

 

池はこんな感じでとても浅いです。

 

面白いことが解説されています。

2万年前に関東平野北部が持ち上がるような地殻変動が起こった結果、狭山丘陵の北側を流れていた多摩川(古多摩川)が流れを徐々に南へとスライドさせていきました。※1

そのころからここの周辺は広く水が溜まるような場所で、その状況は多摩川が現在のように武蔵野台地の西端に移動した後も続いていた。蛇喰(じゃくい)次右衛門の伝承もそういった地理状況から生まれた、と。

(蛇喰次右衛門の伝承とは、かつてこの池に住む大蛇を蛇喰次右衛門が退治したというものです)

 

狭山が池は古くは筥(はこ)の池と呼ばれていました。

狭山神社の祭神の中に箱根大神の記述がありましたが、その箱根大神にちなんだネーミングなのでしょう。

 

説明図(北が下向きになってます)がありました。

狭山が池に流れ込んでいる川(右下)を辿ってみます。

 

江戸末期、武蔵野から群馬にかけて多くの一揆が発生し幕府はこれを放置していました。

室町時代以降、列島は貨幣経済が発達する流れの中で貨幣供給が足りず慢性的なデフレに陥っていました。農民は税を農産物で物納していましたがデフレでは貨幣価値が上昇し相対的に物の価値が落ちますので農民の生活は圧迫を受けます。それ以前に幕府・諸藩の徴税が酷すぎましたので、幕末の海外貿易の始まりによって拍車がかかって一揆が頻発したのです。

武蔵野を領地として支配してきた旗本は一揆に対して何もしなかったため、一揆の勢いは増していきました。

そこで打ち壊しを恐れた地方の有力者を中心に農兵を組織する動きがあって、その訓練をここでやっていた、と。※2

 

幕末の有名な新選組の中心メンバー土方歳三も関東の寒村の農民で、試衛館道場の出身でした。

農兵、試衛館など士分以外から実力ある兵力が出てくるということは逆に言えば、士分が戦えないということです。士分とは現代でいうところの公務員です。※3

といえばもうお分かりですね? ね?

 

これがその調練橋

 

こんな川を上流へ歩いていきます。

 

ここが行き止まりの池。

池の奥の方に流れ込みがあります。

 

流れ込みは小川となり上流の農地へ続いています。だだっ広いです!

このあたり一帯が江戸期以前には池(沼地?)だったのですね。

さらに流れを辿っていきましたが畑の中へ徐々に消えていました。

 

現在の周辺地理をGoogleMap上に重ねて作ってみたのが上図です。

狭山が池から流れ出ている残堀川が低地を流れているのが分かります。その両側は高い地面になります。

 

さて、これは江戸期末期とお考えください。狭山が池は現在の10倍くらいの面積があります。

残堀川は元々狭山が池に繋がっていません。江戸期末期に耕地を得るために排水路として残堀川を狭山が池に付け替え排水したのです。

 

武蔵野台地では「青梅を中心とした放射状道路」が一般的です。

ですがここでは狭山が池を中心とする放射状の道すじになっています。このことは「この部分が長い時代水場になっていて干拓された後新たに地割りされたエリアだ」ということを表していると思いました。

そのエリアを水色に塗りつぶしたのが下図です。

この図に縄文遺跡をプロットしたのが下図です。

 

「白縄」が縄文遺跡です。立地を見ると高台にあります。つまり上図左下の平野は洪水が多くて危険だったのだと思います。

現在の武蔵野台地を知っている人にとっては信じられないと思います。ですが地域の歴史を調べてみると武蔵野台地上で江戸期には洪水が頻発し、幕府・御家人たち(武蔵野台地の直接的な領主)は何も対策せず、名主・庄屋レベルの自主的な工事によって改善されていたのです。これは誰でも確認できる歴史上の事実です。

 

さて縄文時代は武蔵野台地に多くのコロニーが点在していましたが、弥生時代に入ると稲作に適した場所を求めて移動した結果武蔵野台地からコロニーが激減しました。

ですが居残った強者もいました。

弥生時代以降の遺跡を黄色で示しました。

そのうち黄色□が縄文時代から弥生時代へ居残ったコロニーです。このポジションは稲作に向いていませんし地下資源もありませんので畑作、養蚕しかないです。

狭山神社の境内に機(はた)神社なる摂社がありました。祭神はタクハタチヂ姫(高木大神の次女)でした。機(はた)神社という名称から養蚕が連想されます。実際、明治期には輸出用絹の生産が激増していますので、古代において養蚕をやっていても不思議はありません。

(ひょっとしたらタク「ハタ」チヂ姫というネーミングも養蚕と関係あるかも…)

 

次に、注目すべきは一番左のコロニー(狭山遺跡)です。

上図の左下部分は雑木林でありながら洪水の危険が常にある場所なので定住できません。ですが古代狭山池の位置は排水さえすれば安全な耕地になりそうです。

実は古代狭山池を排水したと思しき水路(大溝)が発掘されています。以下、瑞穂町郷土資料館けやき館(東京都西多摩郡瑞穂町駒形富士山316−5)の資料より抜粋しました。

これは江戸末期に狭山が池を排水するために開削された残堀川とほぼ同じです。どうしても排水したかったのですね。大溝建設をやったのは狭山神社を祀る人々だったと思います。(すぐそばなので)

一般的に弥生時代から稲作がスタートし、氷川族の管理運営する水路網を通じて遠方まで商取引されるようになったと思います。やがて稲作が広まり大量にコメが生産されるようになると価格が暴落するのは当たり前です。そこで米以外の商品作物に目をつけた者たちが、ここ狭山丘陵の西端で養蚕を始めるに当たって桑を栽培する畑を得るために古代狭山池を排水したのではないか、と想像しました。

 

さてここまで見てきてちょっとしたことに気づきました。

狭山・・・やま

蛇喰次右衛門・・・じゃくい

蛇掘川(残堀川の旧名)・・・じゃぼり

なんか似てない?

武蔵野台地上を探すと他にも似たものが見つかります。

砂川・・・すながわ、がわ

それらを地図上にプロットしたものが上図です。

現在の残堀川(蛇堀川)は上図水色ラインのように多摩川に落ちていますが、これは江戸期に玉川上水を建設するにあたって川筋が変えられたのです。※4

玉川上水以前は白い点線のように流れていました。※5

ご覧のとおり武蔵大國魂神社のそばを流れています。

以前、埼玉県立歴史と民俗の博物館で武蔵大國魂神社の性格を演繹しました。

簡単に振り返りますと…

縄文の昔より関東の中心は荒川沿岸で、それは弥生、古墳時代になっても変わりませんでした。奈良政権が成長し東国にまで侵略の手を伸ばしてきたとき、荒川沿岸勢力が強くて荒川へ入り込むことが出来ませんでした。

そこで彼らは多摩川流域に橋頭保を築いたのです。それが武蔵国府で、あたかも自分が武蔵野国全体(関東一円)の支配者であるかのごとく面目を取り繕うために建設したのが武蔵大國魂神社でした。

武蔵大國魂神社は総社で関東各地の有力氏族※6の神社を総覧的に展示することで、「こいつらは俺の舎弟だっ!」と主張したのです。

よく話題になるのが埼玉県大宮氷川神社が武蔵1の宮なのか3の宮なのか、という議論です。

大宮氷川神社自身は1の宮といっていますが、武蔵大國魂神社は大宮氷川神社を3の宮にしています。これは理由は簡単で、武蔵大國魂神社では真の関東の実力者・大宮氷川神社をおとしめて3の宮にしているのです。本当ならもっと貶めてやりたいところでしょうが、それができないくらい大宮氷川神社、荒川沿岸勢力が強大だったのだと想像します。

このことだけで武蔵大國魂神社、武蔵国府の性格がよく理解できると思います。

(記紀がよくやる「貶める」プロパガンダです)

 

その点を理解すると、奈良政権の下部組織である彼ら(武蔵大國魂神社、武蔵国府)が何をしたがっているのかが想像しやすいのではないでしょうか。かれらはどうしても荒川流域を侵略したくてしたくてたまらないのです。

そんな彼らの目の前に、狭山丘陵へと伸びている残堀川があります。これを利用しない手はないでしょう!

 

そこまで理解すれば狭山神社の性格がより理解しやすいと思います。

・古代の狭山池を排水し、絹(商品作物)を生産し利益を上げようとした

(→→→狭山神社末社・機(はた)神社のタク「ハタ」チヂ姫)

・狭山丘陵南麓から氷川勢力を排除し、親奈良政権エリアを作ろうとした

(→→→柳瀬川流域は氷川勢力なのに狭山丘陵では氷川がいない)

・さらに狭山丘陵から北部へと進出するための橋頭保とする

(→→→今後の調査)

そうした目的達成のための狭山神社への兵站線として古残堀川が使われたのではないでしょうか?

 

 

 

※1

2万年前に起きた地殻変動により関東平野の北半分が隆起し、隆起した部分と隆起しなかった部分の境界に断層が生じました。これが立川断層です。

断層が生じただけではなく武蔵野台地そのものに北から南へ下るゆるい傾斜が発生し、その傾斜により狭山丘陵の北側を流れていた多摩川が南へとズリ下がって現在の位置に落ち着きました。

多摩川が移動する過程で武蔵野台地には河岸段丘が出来ましたが、残され川も生じました。その一つが柳瀬川であり残堀川なのです。

 

※2

近年、江戸時代を見直す動きがあります。その内容は江戸時代は教育レベルが高くて、世界最高水準の清潔さで、農業工業技術も高かったので明治時代の高度な発達が出来たのだ、と。

嘘こけ!と言いたいです。

そういう論調は、例えるなら現代を「IT技術が進化した上にAIもあっという間に浸透しすごい飛躍があって人々が皆幸せだった時代」と評するのと同じことです。もちろん世間の一部にはそういう目ざとい人もいるでしょうが、全体的には〇く〇〇やスタグフレーションにより食い物にされているのが現実です。

一面だけ見ては全体傾向を見誤ります。

江戸時代を冷静に評するならば「ごく一部の人間が利権を死守・世襲し、彼らは世間がどんなに酷いことになろうと無関係」そんな世の中が長く続いた、というだけです。とても江戸時代なんて評価できませんな、私には。

明治期に世の中が大きく発展・変化したのは単にグローバリストの投資によるもので、日本人はその返済に昭和期までかかっています。

 

※3

そりゃ一生デスクワークやってたら、いくら腰にダンピラ下げてても使えねぇわな。

 

※4

江戸期に入り江戸市中の水需要が高まりました。同時に、それまで土地利用されていなかった武蔵野台地を細かく旗本に領地区分した結果、領主旗本へ納税するために生産力を上げなければならなくなりました。が、武蔵野台地は水源が無く耕作に向いていなかったため多摩川から用水を引く工事を民間にやらせました。

民間というのは有力庄屋の事です。

これは完全に公共事業の性質のものですので幕府・旗本がやるべきと思いますが、なぜか庄屋にやらせています。

この理由をどなたか教えていただけませんか?

聖武天皇の時代の各地の公共事業を行基と民間にやらせたのも同様で、これって完全に政府がやるべき事業だと思うのですが…

 

※5

旧残堀川の流れについてはサイト・失われゆく風景より引用しました。素晴らしい研究で感服いたしました。

 

※6

関東のすべての有力神社を集めたわけではありません。ここがなんとも含蓄深いですなぁ…