空堀川は柳瀬川の支流で、狭山丘陵のすぐ南側を東に向かって流れています。その空堀川を遡上する格好で、狭山丘陵の南麓にきれいに並んでいる神社群を訪ねていきます。

 

■奈良橋八幡神社・・・東京都東大和市奈良橋1丁目256

 

 

 

空堀川から1kmほど北上した細い谷間に奈良橋八幡神社はあります。

 

 

石段を登っていく途中に小さい祠がありました。

御嶽神社、祭神が天児屋根(=草部吉見=天忍穂耳=海幸=鹿島大神)

御嶽神社というと普通は大己貴命、少彦名命、国常立尊なんだけどなぁ~

 

傍に立つ石碑には、昭和の時代に武蔵大國魂神社と関連し大々神楽を行ったとあります。

武蔵大國魂神社はここより南方10km多摩川に近い、武蔵国の総社とされる神社で以前のブログでその性質・由来について言及しています。

簡単に言えば…

弥生時代から氷川神社群が支配する関東の中心・荒川沿岸。畿内から太平洋岸を北上してきた奈良政権勢力はこの荒川沿岸に入り込みづらかったと想像します。

代用として多摩川に入り込んだものの、多摩川は荒川と違って上流部には何もありません。ですので荒川沿岸よりも多摩川は経済規模が凄く小さかったと思います。つまり多摩川を押さえても旨みが小さかったのです。

彼らが多摩川に入り込んで作った象徴が武蔵大國魂神社です。彼らは多摩川流域に見切りをつけて、まっすぐ北上する陸路(官道)を作り、なんとか少しでも荒川流域に食い込もうと画策します。

 

ここ奈良橋八幡神社の石碑はそういった古代の経済圏のせめぎあいの痕跡を伝えるものなんじゃないのかなと、想像しました。

 

さらに石段のわきには大六天社。これはちょっとよく分かりません。

 

石段を登り切るとこのようになっています。

 

奥へ進んでいきますと、祠がありますが詳細は不明です。

 

こちらも同様です。(とてつもなく知りたい!!)

 

境内に入ります。

 

 

鳥居をくぐって右手に祠

 

武内宿祢ですね。柳瀬川流域ではあまり見ません。

 

こちらは神明社、祭神はおおひるめの命とあります。オオヒルメムチ(=天照)ですね。

 

擦れて読めない由緒書き。

頑張って読むと、祭神は誉田別(応神)で、創始は不明とのこと。あらら…

 

拝殿。神紋は三つ巴(大幡主)

 

 

本殿の千木は外削(男神)、鰹木は?

これ以上は分かりません。

 

傍には厳重に囲われた石の祠が。

立札の文字が消し飛んでますが、一番上の文字は「八」だとわかります。八幡ということでしょうか。

一般的には八幡=応神(誉田別)ですが、本殿にはきっと誉田別が祀られているでしょうし、ここに八幡を祀るのはこの八幡=大幡主なんじゃないのかなと考えました。

応神が八幡を名乗るようになった経緯についてはまたの機会に譲ることにします。ここでは、応神が九州王朝の権力闘争に勝って、もともと大幡主の称号であった八幡を名乗るようになったという事件があったとだけ申しておきます。

 

一段高くなったところに浅間神社、祭神はコノハナサクヤ姫。

これが江戸期の浅間信仰なのか、九州からやってきたコノハナサクヤ姫(=前玉姫)の伝承に基づくものなのか、判別不能です。

 

これは別アングルなのですが、中央の祠の左右にも祠がありますね。取材時に分からなかったのですね。残念!! ヒントになったかもしれないのに。

 

肝心な点が全く隠されてしまって、表に出している要素しかないので何とも解明不能です。

誉田別、天照(神功の代わり?)、武内宿祢というセットだけが示されていますが、名前を隠された祠がいくつもありますのでこちらの祭神の方がオリジナル(古い時代)だということは容易に想像できます。

ただ、それが何なのか??

 

唯一分かるのが大幡主と天児屋根です。

両者とも海洋王で関東の開発に絶大な影響力を発揮しています。でもこれだけじゃあね…