イヤハヤ…

 
前回から引き続き考察してみます。
もともと入江だった時代、利根川流域は上流地方と外海遠方とを繋ぐ幹線だったはずです。
 
鹿島神宮香取神宮はちょうどその幹線を挟むような立地ですので、様々な勢力が利権を巡って奪い合ったのではないかと想像できます。
 
(鹿島神宮)
 
(香取神宮)
 
両神宮に奉られています主祭神・武甕槌(たけみかづち)大神と経津主(ふつぬし)大神は、日本神話の「出雲国譲り」の過程で重要な役割を果たしています。二神は高天原から派遣され武力を背景に大国主命に国を譲らせるのです。
 
その二神が出雲に続いて利根川流域に進出・支配した…などと想像が膨らみます。武甕槌大神と経津主大神がどうやってそれを達成したのかは、遠い過去のことなので不明ですが今回そのうっすらとした痕跡(の気配程度?)かなと感じたことをご紹介します。
それは、鹿島神宮の北西、北浦の対岸・潮来台地(?)上にある大生(おおう)神社です。
 
■大生(おおう)神社・・・茨城県潮来市大生814
 
 
以前レポした鹿島神宮の北西5~6kmに位置しています。
大生神社の南には古墳が集中しています。このあたりの豪族の墓でしょうね。
 
100m以上ある森閑とした参道の奥に鳥居がありました。
 
明治5年の石碑には阿夫利神社と刻まれています。
 
石碑に由緒が刻まれていました。
「和銅4年(7世紀ごろ)、泰之伊呂貝なる人物が餅を矢で射抜いたところそれが鳥になって飛んで稲荷塚・松の梢に落ちた。村人はそこに松和稲荷大明神を建て、祖先のオフ一族が大生大神宮と併せて祀った。もとは近くの稲荷塚古墳の上にあったが明治期に現在地へ移された」
オフ→大生→阿夫利、ということでしょうか。
 
由緒にあった松和稲荷が脇にありました。
 
その脇になにやら…
 
一番左は上に乗っかっているのが塩釜っぽいので猿田彦かな??
次は金毘羅大権現、大国主です。
次は二十三夜と彫ってありますので二十三夜講でしょう。二十三月の夜に行う集会ですね。
次は穴龍神宮とありますが不明です。
 
鳥居です。竹がくくりつけられています…これは一体?
 
拝殿です。観光客の姿もなく、おそらくは地元の方々の信仰を集める神社でしょう。きらびやかさはありませんが、ちゃんと手入れが行き届いています。
ちょっと屋根のデザインが曲線的で独特です。
 
 
案内板によると、明治時代以前は鹿島神宮の宮司と氏子が大生神社の秋の例大祭のためにここへやってきていたそうです。
鹿島神宮と深いつながりがあった、ということですね。
どういったつながりかはよく分かりません。
 
ただ由緒書にあった「オフ一族」のオフ=オオ、オーと発音したとするとオオ一族→多一族と連想されます。
それは、鹿島神宮の主祭神・鹿島大神(=天忍穂耳=海幸)の父・神沼河耳が多氏であったことから、ここ大生神社を信奉した「オフ一族」なる人々も多氏に連なる者達だったのではないかという想像をしてしまいます。
多氏は、古代中国大陸で北から漢族の攻撃を受け雲南の山奥にまで逃げた倭人の一族がさらに逃げて南シナ海へ下り黒潮に乗って九州にたどり着いたのが大幡主=白族です。その船に便乗して九州へ渡ってきたのが漢族と戦った英雄・多将軍の多族です。
鹿島大神(=天忍穂耳=海幸彦)は多氏の神沼河耳の息子で、大幡主の孫・市杵島姫と結ばれています。多氏と白族が結ばれたわけで、これは最強です。
そういった鹿島大神(=天忍穂耳=海幸彦)の出自を理解すれば、鹿島神宮の宮司と氏子が大生神社の秋の例大祭のためにここへやってきていたということも、太古のルーツに則った儀式として自然に理解できますね。