MASセミナー第19回のお知らせ
こんにちは。
東京もいよいよ梅雨入りして、アジサイの花が美しい季節になりました。
さて、今日は日本建築家協会 港地域会が定期的に開催しております、MASセミナー 第19回のお知らせです。

A4版チラシダウンロード→

参加建築家のコメントはこちら。→
テーマ:「街と建築を日本と海外から考える」
日時: 6/27(土) 14時~16時
懇親会: 16時~17時半まで(参加費500円)
(同会場で簡単な懇親会を行います)
場所:日本建築家協会 JIA館1階 建築家クラブ
渋谷区神宮前2-3-18
詳しくはこちら→ http://www.jia-minato.jp/
建築やまちづくりに興味のある方、生活環境を改善したい、という方、テーマについて興味がある方など、どなたでも参加いただける無料のセミナーです。
添付ファイルに記載がある複数の建築家が、スライドと一緒員テーマに沿った考えを語り、会場の皆さんと一緒に考えていく時間にしたいと考えています。
終わった後、同会場でワインとおつまみで簡単な懇親会も用意しています。
気軽な交流のひとときとしても、お気軽にお立ち寄りください。
田口知子
東京もいよいよ梅雨入りして、アジサイの花が美しい季節になりました。
さて、今日は日本建築家協会 港地域会が定期的に開催しております、MASセミナー 第19回のお知らせです。

A4版チラシダウンロード→

参加建築家のコメントはこちら。→
テーマ:「街と建築を日本と海外から考える」
日時: 6/27(土) 14時~16時
懇親会: 16時~17時半まで(参加費500円)
(同会場で簡単な懇親会を行います)
場所:日本建築家協会 JIA館1階 建築家クラブ
渋谷区神宮前2-3-18
詳しくはこちら→ http://www.jia-minato.jp/
建築やまちづくりに興味のある方、生活環境を改善したい、という方、テーマについて興味がある方など、どなたでも参加いただける無料のセミナーです。
添付ファイルに記載がある複数の建築家が、スライドと一緒員テーマに沿った考えを語り、会場の皆さんと一緒に考えていく時間にしたいと考えています。
終わった後、同会場でワインとおつまみで簡単な懇親会も用意しています。
気軽な交流のひとときとしても、お気軽にお立ち寄りください。
田口知子
加地邸見学の一日~トータル芸術としての建築
今週日曜日に、建築家 遠藤新氏設計の加地邸の見学会に行って来ました。

昭和3年に建てられた名建築で、三井物産ロンドン支店長だった加地利夫氏の別荘です。建築家が家具や照明、金具のひとつまで、理想の想いをこめてデザインした建築で、トータル芸術としての住宅の姿を示してくれています。

竣工から87年の月日を重ねて変わらない姿で現存していることは、この日本では奇跡に近く、保存のための努力を重ねてこられた加地一族の懐の深さは並々ならぬものと拝察します。時代を超えて存続している名建築を拝見するのは、とても幸せで貴重な体験です。
建築家の遠藤新氏は、フランク・ロイド・ライトの高弟として帝国ホテルや自由学園の設計を担当した建築家で、師であるライトの作風を引き継ぎ、日本でも多数の建築を残しておられます。この加地邸は遠藤氏が30代後半に設計されたらしく、ライトの影響を受けつつも氏の自由で独自なデザインの発露が感じられる。大谷石をふんだんに使った基壇やアプローチのピロティ、屋根の棟換気のデザインや庇の出、暖炉のデザインの自由さや、水が流れるように高低差をもって連続する居室空間。「狭い・広い、低い・高い、明るい・暗い」という心理的効果を狙った変化に富む空間の構成は心地良い。(内部空間撮影不可だったため写真はないのが残念)

当時「拙新論争」という、遠藤氏と山本氏の論争があったことをパンフレットで読んだ知った。「住宅は、住まい手が自ら成長させ、完成させていくものだ」という山本拙郎の批判に対し、遠藤の「住まい手の希望を叶えるというのは建築家の仕事ではない。よい住宅建築とは、人間生活の環境として人に教えるに足る底の建築であるべきだ。真の建築家とはかかる住まいを作りうる者の謂であると私は信じる」と反論したという。遠藤いわく「生活改善、住宅改良は要するに能率の問題「要」の問題、必要の解決、というところを彷徨しています。必要の解決は万人の問題であります。然しまだ建築家の問題ではありません。まだもっと進んだところに建築家の領分があります。」
必要を解決し進歩させていく「仕事」としての建築と、唯一性を持った作品芸術としての建築。この葛藤は、いつも時代にも、建築家が抱える普遍のものだ。自分のような凡人は、痛みをもって反みるしかないが、芸術家としての建築家という概念は、無上の喜び、夢を与える職能として、人を飛翔させるものとして存在し続けることに変わりはない。
建築が、一個の存在物として自立し、時代や人が変わっても生き続け独自の世界を存在させ続けるということ。建築家の思想と全体性を備えた建築は、そのような大上段で、優雅に存在し続ける建築空間は、日常の次元を超えた深い安らぎを与えてくれると思った。


昭和3年に建てられた名建築で、三井物産ロンドン支店長だった加地利夫氏の別荘です。建築家が家具や照明、金具のひとつまで、理想の想いをこめてデザインした建築で、トータル芸術としての住宅の姿を示してくれています。

竣工から87年の月日を重ねて変わらない姿で現存していることは、この日本では奇跡に近く、保存のための努力を重ねてこられた加地一族の懐の深さは並々ならぬものと拝察します。時代を超えて存続している名建築を拝見するのは、とても幸せで貴重な体験です。
建築家の遠藤新氏は、フランク・ロイド・ライトの高弟として帝国ホテルや自由学園の設計を担当した建築家で、師であるライトの作風を引き継ぎ、日本でも多数の建築を残しておられます。この加地邸は遠藤氏が30代後半に設計されたらしく、ライトの影響を受けつつも氏の自由で独自なデザインの発露が感じられる。大谷石をふんだんに使った基壇やアプローチのピロティ、屋根の棟換気のデザインや庇の出、暖炉のデザインの自由さや、水が流れるように高低差をもって連続する居室空間。「狭い・広い、低い・高い、明るい・暗い」という心理的効果を狙った変化に富む空間の構成は心地良い。(内部空間撮影不可だったため写真はないのが残念)

当時「拙新論争」という、遠藤氏と山本氏の論争があったことをパンフレットで読んだ知った。「住宅は、住まい手が自ら成長させ、完成させていくものだ」という山本拙郎の批判に対し、遠藤の「住まい手の希望を叶えるというのは建築家の仕事ではない。よい住宅建築とは、人間生活の環境として人に教えるに足る底の建築であるべきだ。真の建築家とはかかる住まいを作りうる者の謂であると私は信じる」と反論したという。遠藤いわく「生活改善、住宅改良は要するに能率の問題「要」の問題、必要の解決、というところを彷徨しています。必要の解決は万人の問題であります。然しまだ建築家の問題ではありません。まだもっと進んだところに建築家の領分があります。」
必要を解決し進歩させていく「仕事」としての建築と、唯一性を持った作品芸術としての建築。この葛藤は、いつも時代にも、建築家が抱える普遍のものだ。自分のような凡人は、痛みをもって反みるしかないが、芸術家としての建築家という概念は、無上の喜び、夢を与える職能として、人を飛翔させるものとして存在し続けることに変わりはない。
建築が、一個の存在物として自立し、時代や人が変わっても生き続け独自の世界を存在させ続けるということ。建築家の思想と全体性を備えた建築は、そのような大上段で、優雅に存在し続ける建築空間は、日常の次元を超えた深い安らぎを与えてくれると思った。

GARDEN HOUSEの贅沢な休日
昨日は、私が10年前に増築工事の設計をさせていただいたGARDEN HOUDE にお邪魔してきました。

家主は、伊勢原市の一角にあるこのお宅の建て主は認知心理学の研究者で第一人者でもあるI先生。猫と植物をこよなく愛するIさんとは、クライアントというより、親しい友人として長くおつきあいいただいていて、昨日もいつものように一緒に料理をつくり、夕方の屋上でワインを楽しむのが極上のひととき。

今回は、先日ラジオ出演したIさんの言語の違いによる認知の違いがちょっと盛り上がりました。西洋を旅していると、見知らぬ人でも、アイコンタクトして微笑む、というのはとても自然な体験ですが、日本では、そのようなコミュニケーションがほとんどないのはなんだろう?ということでお聞きしてみました。
日本語は、言語として、主語がなくても話ができる、という特徴があります。その場の状況から類推して話すことが大切で、そのために、「語らないでおく部分」が結構たくさんある。そのことは、控えめにしたり、遠慮したりすることが美徳とされる文化にもつながっています。
しかし、そのせいでコミュニケーションの範囲が狭まり、家族や会社の知人など、よく知っている人同士でしか、打ち解けない、アイコンタクトが起きないという、閉じたコミュニティーを作る傾向があると。
特に、不快感や違和感などネガティブな感情は、その相手に直接伝えることは極めてまれ。ぐっとがまんして、腹にしまう。そういう家族・友人間の暗黙知のコミュニケーションは、たまってくると澱のように沈殿して、重たく、ねばっと、健康を害する何か、目に見えないけれど、日本独特の「悪いもの」が発生すると感じます。
一方欧米では言語の性質上、コミュニケーションで自分自身を率直に開示するような言語の構造を持っているため、はっきりとしていて、わかりやすく伝わるので、コミュニケーションが開かれているのではないか、とうことを発見しました。
自分の感情に向き合って、ちょっと変、なんかあるな、と思ったときに、丁寧にコミュニケーションすることは、日本でも風通しの良い健全な関係の根っこを作ると思いました。
Iさんのお宅の愛猫はユキチといいます。Iさんの敬愛する福沢諭吉先生の名前をとったようで・・(笑)

西洋文化と日本文化、それぞれの特徴や良さを深く考える機会、認知心理学の議論は、本当に贅沢なひとときでした。


家主は、伊勢原市の一角にあるこのお宅の建て主は認知心理学の研究者で第一人者でもあるI先生。猫と植物をこよなく愛するIさんとは、クライアントというより、親しい友人として長くおつきあいいただいていて、昨日もいつものように一緒に料理をつくり、夕方の屋上でワインを楽しむのが極上のひととき。

今回は、先日ラジオ出演したIさんの言語の違いによる認知の違いがちょっと盛り上がりました。西洋を旅していると、見知らぬ人でも、アイコンタクトして微笑む、というのはとても自然な体験ですが、日本では、そのようなコミュニケーションがほとんどないのはなんだろう?ということでお聞きしてみました。
日本語は、言語として、主語がなくても話ができる、という特徴があります。その場の状況から類推して話すことが大切で、そのために、「語らないでおく部分」が結構たくさんある。そのことは、控えめにしたり、遠慮したりすることが美徳とされる文化にもつながっています。
しかし、そのせいでコミュニケーションの範囲が狭まり、家族や会社の知人など、よく知っている人同士でしか、打ち解けない、アイコンタクトが起きないという、閉じたコミュニティーを作る傾向があると。
特に、不快感や違和感などネガティブな感情は、その相手に直接伝えることは極めてまれ。ぐっとがまんして、腹にしまう。そういう家族・友人間の暗黙知のコミュニケーションは、たまってくると澱のように沈殿して、重たく、ねばっと、健康を害する何か、目に見えないけれど、日本独特の「悪いもの」が発生すると感じます。
一方欧米では言語の性質上、コミュニケーションで自分自身を率直に開示するような言語の構造を持っているため、はっきりとしていて、わかりやすく伝わるので、コミュニケーションが開かれているのではないか、とうことを発見しました。
自分の感情に向き合って、ちょっと変、なんかあるな、と思ったときに、丁寧にコミュニケーションすることは、日本でも風通しの良い健全な関係の根っこを作ると思いました。
Iさんのお宅の愛猫はユキチといいます。Iさんの敬愛する福沢諭吉先生の名前をとったようで・・(笑)

西洋文化と日本文化、それぞれの特徴や良さを深く考える機会、認知心理学の議論は、本当に贅沢なひとときでした。
