石原吉郎さんのこと | 世界の歌謡曲

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その日の気分で 心に残る歌

天気も荒れ模様だし 今日は石原吉郎さんについて考えてみる



石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日本の詩人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人である。
(ウィキペディア)

詩人。静岡県伊豆に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1939年(昭和14)応召。終戦の年、ソ連軍に抑留され、重労働25年の判決を受ける。53年(昭和28)特赦により帰還。詩作はこのころより始められ『ロシナンテ』を創刊。『荒地(あれち)』の最後期の同人で、64年『サンチョ・パンサの帰郷』(1963)によりH氏賞受賞。シベリア体験は生涯のモチーフとして生の基準点となった。またキリスト者としての思念は深く、その詩語はいっそう贅肉(ぜいにく)を落とし極限的、断言的フォルムへと削られていった。詩集に『水準原点』(1972)、『礼節』(1974)など。評論集に『日常への強制』(1970)、『望郷と海』(1972)、『断念の海から』(1976)などがあり、戦後詩に独自の深い航跡を残した。
[高橋世織]『『石原吉郎全集』全3巻(1979~80・花神社)』

石原吉郎さんの詩に接して いつも感動するのは 選び抜かれた言葉 その断言にも似た厳しい口調 自らの「位置」「姿勢」そして「孤独」と「祈り」
「戦争」の犠牲者でありシベリアでの強制労働による過酷な経験 キリスト者であるということ
でも決して そうしたことの被害者意識とか告発とかとは違うと思う 彼の詩は
常に真摯に立ち向かい 手探りで自分の立ち位置を追い求める だから僕らは「襟をただして」
いつも不平や不満 言い訳ばかり そんな情けない僕にとって まさに真の「福音書」です
戦後も決して幸せではなかった彼の人生 最期もちょっとさびしい 書きません・・・


『位置』
しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

『花であること』
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
  
石原吉郎 詩集<サンチョ・パンサの帰郷>

『礼節』は晩年の詩作の一つです そしてネットで素晴らしい論評見つけたので

『礼節』
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆縁の完璧さにおいて
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか

石原吉郎 詩集<礼節>

石原吉郎の著書「望郷と海」にはこのような言葉がある。「詩とは〈沈黙するための言葉〉である。」さらに「私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」また「戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命に対する罪である。」とも。
石原吉郎の抑留期間は長く、彼への戦後の訪れは祖国の人々から大幅に遅れました。それは石原の深い孤独となって心を病み、執筆活動においても常に「低迷」と「苦渋」が感じられます。わたくしには、このシベリア体験の極限状況と人間の不条理を「詩の言葉」にすることに対して、石原には常に「戸惑い」があったのではないかとすら感じられるのです。さらに「決して伝わらないだろう。」という「断念」もあったのではないでしょうか?
また石原は「シベリア体験者」=「反戦」という、一括りの図式を用心深く避けたように思えます。その一例が「反原爆運動」を拒否したことでした。「見たものは〈見た〉と言え。」戦後の石原吉郎はあくまでも孤独な「反戦」を貫いたように思えます。
『声「非戦」を読む』
http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_03/poem_hyo.php?p=8


そうして最後にこれも晩年の作 僕の大好きな「詩」です

『片側』
ある事実のかたわらを
とおりすぎることは
そんなはずでは
ないようにたやすい
だが その
熱い片側には
かがんで手を
ふれて行け
事実は不意に
かつねんごろに
熱い片側をもつ

石原吉郎 詩集<水準原点>