訃報:原節子さん② | 世界の歌謡曲

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原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
朝日新聞デジタル 11月25日(水)23時49分配信

9月に亡くなっていたことが分かった原節子さんは昭和30年代、42歳で突如スクリーンから消えた。マスコミとの接触も絶った伝説の女優は、半世紀にわたって沈黙を貫き世を去った。


「独逸(ドイツ)へ行く大和(にっぽん)撫子(むすめ)」

「日本の名花から/愈々(いよいよ)世界の恋人」

1937年、日独合作映画「新しき土」公開のために原節子さんがベルリンに赴くことが決まると、新聞各紙にはこうした大きな活字が躍った。外国でも見劣りしない目鼻立ちのくっきりした美貌(びぼう)で長身の女優が生まれたことを、当時の日本人は手放しで喜んだ。
だが、人気を誇りながらも、20代のうちは演技では芳しい評価を得られなかった。

「映画はクローズアップ使うでしょう、そういう時、演技ばかりで押し切らず、高い程度の人間ってのかな、それを出したいんです」(30歳当時の発言)

「わたし昔から大根々々といわれつけているので悪口いわれても平気になったけれど、映画評なんかもっと指導的であってほしいの」(31歳)

こうした真剣な発言が、インタビュー記事の中では、ともすれば揶揄(やゆ)的にとり上げられた。

「路傍の石」「ふんどし医者」で夫役を演じた生前の森繁久弥さんによると、猥談(わいだん)にも乗ってくる開放的な女性だったという。著書の中で「そんな話をする奴(やつ)も周りにいないのだろう」と同情している。

「若いときは、どうして結婚しないんだといわれたり、気持ちが不安定で、早く年をとって安定した中年の美しさを身につけたいなあと思ってました。人形的な美しさでなく、内面のうかがえる美しさ、好もしい顔、感じのいい顔……」(40歳)

恋人役も母親役もこなせる女優として期待されながら、42歳で原さんはスクリーンから消える。

マスコミとの接触を絶ち、一切の取り次ぎは同じ敷地に住むおい夫婦が引き受けた。63年、小津安二郎監督が死去した際、通夜に訪れたのが公の場に姿を見せた最後。玄関に立ち尽くし、泣いていたという。時折写真週刊誌やテレビのワイドショーが私生活を盗み撮りしたが、黙殺した。

94年、原さんの名前が久しぶりにマスコミをにぎわせた。東京都狛江市の宅地約2900平方メートルを売却したことから、高額納税者番付の75位に顔を出したのだ。おいの妻が伝えた本人のコメントは「そっとしておいてほしい」(73歳)。

「小津監督の命日、一輪のバラを墓前に供え続けた」「地元の公民館が小津映画を上映したとき、ほおかむりをした原さんが見に来た」といううわさも流れた。肯定も否定もしないまま、原さんは世を去った。

朝日新聞社


原節子さん 女優志願ではなかった普通のお嬢さんも評価は「伝統的日本女性の理想像」
スポニチアネックス 11月26日(木)7時14分配信

原さんはモダンと古風を兼備し、戦前から高度経済成長期に差し掛かる時代を象徴し続けた存在だった。

かつて黒澤明監督が、ごく普通のお嬢さんと評したように、もともと女優志願の人ではない。親族に映画関係者が多く、華やかな美貌を買われ10代で銀幕デビューした。戦中は国策の下、旧満州・朝鮮の国境警備隊長の妻など“銃後の女神”の役を演じてさらに人気を高めた。戦後になると一転、民主主義を高らかにうたった今井正監督の「青い山脈」(49年)で、新しい時代の息吹を伝える教員役などを演じた。

本人は女優イングリッド・バーグマンを目標としたが、美貌の陰に深い内省をたたえた資質は、やがて超大作よりも「東京物語」など小津監督の端正な作風にはまっていく。いつしか国内外から「伝統的な日本女性の理想像」とみられるようになっていった。

「めし」「山の音」など成瀬巳喜男監督の一連の作品で、終始うつむいてみせたけん怠期の妻役も忘れ難い。多くの成瀬作品で敢然と宿命にあらがう高峰秀子さんの女性像とは好対照をなした。

田中絹代さんや岡田茉莉子のように監督、プロデュース業に乗り出すことはなかった。


原節子さん死去 伏せられた死の事実
デイリースポーツ 11月25日(水)23時53分配信

小津安二郎監督の「東京物語」や今井正監督の「青い山脈」に出演し、日本映画の黄金時代を支えた伝説の大女優、原節子=本名・会田昌江=さんが9月5日に肺炎のため、亡くなっていたことが25日、分かった。95歳。横浜市出身。生涯独身を通し、日本人離れしたたぐいまれな美貌で『永遠の処女』『日本のグレタ・ガルボ』と呼ばれた。1963年、小津監督の葬儀以降、表舞台には一切立っていなかった。亡くなったことは、故人の意向を尊重し、伏せられていた。

小津監督が亡くなった63年に女優を引退し、生涯、表には出ないというスタンスを貫いた原さん。映画界やファンとの交流も一切断ち、神奈川・鎌倉の自宅で静かに暮らしていた。女優・司葉子(81)は、原さんを「ほんとに素敵なお姉さま」と姉のように慕い、時々文通や電話をするなど、交流を続けていたという。

自宅で原さんの身の回りの世話をしていた甥は昨年12月発売の週刊誌の取材に答え、「基本的に外出はせず、車でお寺に行ったり、月に何回か外に出るくらいです」と生活ぶりを説明。今年10月末に発売された週刊誌では「9月中旬ぐらい」に原さんが入院し、時々見舞っていること、体調については「前はかくしゃくとしていましたが、もう本人も歳なので」などと説明していた。

しかし、入院時期と説明していた9月中旬にはすでに亡くなっていた。すべては、生涯表舞台には出ないと決めた原さんの意向を尊重し、静かに眠ることができるよう、親族が配慮していたと思われる。

 原さんは1935年、「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)で映画デビュー。36年、ドイツの巨匠アーノルド・ファンク監督の目にとまり、日本初の国際合作映画として制作された「新しき土」(37年)のヒロインに抜擢された。映画は日本、ドイツなどで大ヒットし、スターダムに躍り出た。

小津監督と初めて組んだのは49年公開の「晩春」。小津作品には「小早川家の秋」(61年)まで6作品に出演し、日本映画界における最強コンビと言われた。最後の映画出演は62年公開の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」となった。