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《遠い昔、深夜放送が好きだった人たちへ贈る小説》間々田陽紀の世界

■好きな音楽、好きな映画、好きなサッカー、好きなモータースポーツなどをちりばめながら、気ままに小説(242作品)・作詞(506作品)を創作しています。ブログも創作も《Evergreen》な風景を描ければと思っています。

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小説短編集 【72】君が好きだったプレイリスト(原稿用紙30枚)


※宏太が打ち合わせを終えて事務所を出ると、目の前に古木の桜からピンクの花びらが風に舞っているのが目に入った。毎年3月のこの時期になると、事務所前の桜の様子を目にすることがあったはずだが、何故だか康太には今年の桜交じりの風景が特別なように思われてならなかった。
 
 理由など何もなかった。とにかく何となく、そう思われて仕方なかったのだ。今から2年前音響エンジニアになるための専門学校を卒業して、今の事務所に宏太は見習いスタッフとして採用されていた。それから2年、あっという間に時が流れたように宏太には思えていた。
 
 正直今の宏太は2年間の事務所での仕事を経験して、より一層音響エンジアとして力を付けて行きたいと考えていた。高校時代バンド活動をしていた宏太は高校を卒業する時にバンド活動をメインに続けていくか、バンド活動から離脱して当時興味のあった音響エンジニアの技術を身につけるか最後の最後まで悩んだ。
 
 高校時代組んでいたバンドがコピーを続けるかオリジナル楽曲を創るかで揉めていたこともあって、宏太は気まずい雰囲気のバンドから脱退したのだった。バンドを脱退した宏太は自らのバンド活動の中でも音響については積極的に担当していたし、大好きなバンドのライブ活動やコンサートに行ったには優れた音響技術に感動させられていた。
 
 そんな中で宏太は最終的に高校卒業後、音響エンジニアになるための専門学校へ進学した。専門学校時代も宏太のプロの音響エンジニアになるという思いが薄れていくことなどなく、2年間で基本的な知識やスキルを身に着けることが出来ていた。
 
 そんな宏太は専門学校時代からアルバイトとして出入りしていた音響事務所に、専門学校卒業後も引き続きお世話になていた。見習いスタッフとして採用された宏太は、2年経った今では契約スタッフとして活動をするまでになっていた・・・。


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小説短編集 【73】深夜放送ラプソディ(原稿用紙30枚)

※川崎はいつも通り喫茶店開店の準備のために階段を手摺につかまりながら、ゆっくりと降りて行った。40代前半で喫茶店を始めていた川崎は、昨年で70歳になっていた。店舗兼住宅である今の建物で、川崎の両親は長年古書店を営んでいた。
 
 そんな両親が突然互いの実家のある鹿児島へ帰ると言い出したのが、川崎が放送作家をしていた43歳の時だった。大学生時代から制作のアルバイトとしてラジオ局に出入りしていた時に、川崎は偶然当時ある番組のディレクターから番組の台本を書くように頼まれた。
 
 偶然の声掛けを切っ掛けに制作のアルバイトではなく放送作家としてラジオ局に出入りするようになった川崎は、大学卒業後はプロの放送作家として活動を始め出したのだった。もともと中学生時代から深夜放送が好きだったこともあって大学時代からラジオ局にアルバイトとして出入りするようになっていたが、川崎は詩を書くのも大好きだった。
 
 深夜放送を聴きながら詩作を続けていた川崎は物を書くことに初めから抵抗がなかったこともあり、ラジオ番組の台本を書くことにも無理なく対応できた。そんな川崎は大学卒業後はプロの放送作家として活動していたが、実は両親が突然古書店を閉めて田舎に帰ると言い出した時、川崎自身も色々な意味で不安定な立ち位置に悩んでいた。
 
 実は40代になってからの川崎には放送作家としての仕事の依頼が、年々減少してきていた。そんな所に両親が古書店を閉めると言い出したので、川崎は以前からずっと考えていた喫茶店をやってみようと考えた。もともと両親は古書店を継いで欲しいと思っていなかったこともあり、川崎の申し出を了解してくれた。
 
 川崎が40歳の時のラジオ局の番組制作現場は、それこそ川崎が大学生の頃の20年前とは様変わりしていた。川崎が得意としていた細部へも拘った台本をもとにした番組作りは、本当に少なくなってきていた。番組の進行表に簡単にメモ書きを加えたような台本で、番組制作が行われていたのだ・・・。


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