原発も、食規制も本当に甘い日本人! | 脳溢血からのゆうき

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おはようございます。


長い休みが終わりました、今日から又仕事です。


さて、茨城大学の歴史学者の磯田道史先生が『三代実録』と『駿府記』に今回とそっくりな大地震と津波が、この2冊に載っていると言われています(1100年前と400年前に最低2回は起きているようです)。

今回の地震は『三代実録』に記された、貞観津波(869年)の再来で「千年に一度」は起こるようです。しかし、地震古文書集『大日本地震史料』を通読をしてみて、それは甘いと思ったそうです。東北から千葉にかけて、これに近い津波は4~500年に一度は来た可能性があるし、100年に一度は相応の津波が来るものだと思ったほうが良いそうです。


例えば、1605年に西南日本を襲った西国の慶長津波。この津波の事は20種類以上もの情報が残っている。ところが、1611年伊達政宗の時代に東北地方襲った東北の慶長津波は情報が少ないし、同じ話を反復記録するだけで5種類ほどしか情報がない。ところがこの津波は恐るべき巨大津波であった。伊達政宗の使者が徳川家康に初物の鱈(たら)を献上に来てこの津波の状況を語った事により、その事が今日記録に残っていると。『駿府記』によると、東北慶長津波の時、伊達政宗領では「海辺の人家に大津波が来て、溺死者が5000人出た」事が記されています。当時の日本人口は千数百万人で、今の約10分の1だから、想像を絶する巨大津波です。


地震当日、正宗は二人の家臣を魚釣りに派遣していて、漁師が今日は潮の色が異常だから出たくないと言ったら、一人の侍は「もっとも」と 出魚を止めたが、一人は「主君の命令だから」と漁師7~8人を連れて出船、沖合い数キロ漕ぎ出した所で、大波が山の如くに来た。辛くも転覆は免れその船が流れ着いたのは宮城県岩沼市の千貫山の麗、現在では海岸から7キロもあるところです。見れば住み慣れた民家は一軒もなく、助かったのは出船を強行した彼らだけであったと・・・。それが家康に報告されています。


この津波の地質学的痕跡は、江戸時代以来の田畑の耕作でかなり失われている。史料が少なく今回のような津波は、千年に一度ではなく400年に一度は来ていた可能性はある。福島の海岸で原発を40年稼動させて来たが、その破滅的事故の危険確率は10分の1以上であったかもしれない。私は人災であるとの思いは変わりません!


休みの間に、食中毒で4人もの方が亡くなり、104人の食中毒患者が出ました。これも国の規制が甘い為で、一事が万事わが国の行政は駄目です。こんな大事故が起きたにも関わらず、厚労省の対応は鈍感と言うか呆れてしまう鈍さですよ。官僚一家は焼肉などは食べないのでしょうか?我が身や我が身内に置き換えて考えれば少しは・・・・・・。


また書きます。