最近になって再燃した考古学(その4) | 脳溢血からのゆうき

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お早うございます。



私が倒れたのが平成8年の12月です。それ以来本を読む事など殆どなくなりました。

平成13年に、ダンボール箱に35個分の書籍を古本屋に売ったり、図書館に寄付したり、友人に上げたり、今考えれば非常に悔やまれます。今日は、昔のノートを見ながら倭人伝の邪馬壹国が何で九州だと断言できるかを書きます。


まず第一は、昨日書いた鏡です。漢式鏡がほとんど九州から出土している事、第二は里程問題です。短里でやれば間違いなく九州の博多湾岸に行き着きます。どの学者の本も漢の長里で書いています。これでは赤道の方まで行ってしまいます。

それから九州には間違いなく王朝が在った。皆さんは年号が出来たのは、天智天皇が大化としたのが始めだと学校では習いましたよね…。

とんでもない!九州には飛鳥、朱雀、朱鳥など2~3世紀頃から面々と年号が続いていたのです。それと隋書俀国伝では聖徳太子が送ったとされている国書も本来は、九州の王の多利思北孤(たりしほこ)というひとが、隋の煬帝(ようだい)に送ったものです。

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや(つつがなきや)」と、この事は『隋書俀国伝』の文献に残っているのですよ。それを日本の学者は中国の書き間違えだと言い張っています。ひどいのは多利思北孤も聖徳太子だと・・・・・呆れますね。


まだあります、隋書自体の記事から解ります「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者、俗以て異と為し因って禮祭を行う。如意宝珠有り。其の色青く、大いさ雛卵の如し。夜は即ち光り有り、と云う。魚の眼精なり」、阿蘇に噴火が有り、民衆がお祭りをして阿蘇を敬う、畏敬の念が良くでています。


法隆寺の仏像の後背の碑文や教科書で習ったと思いますが、九州磐井の反乱と言われているものや、そのほかにも多数あります。磐井は九州の王ですよ(百済紀、百済新撰、百済本紀、480~530年頃に始まりとされている本)。この本では[日本]と言う国名も出てきて531年に敗死した磐井の事を日本の天皇と書いています。

唐と新羅の連合軍に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れて息子と二人で捕虜になった、その事が元で九州王朝が滅んだのです。

これが近畿天皇家の有る大和地方では、(阿蘇山)が有るわけがないですよ。

日本書記や古事記等に書かれている、神武東征や神功皇后の三韓征伐などは殆どが九州王朝の九州平定談を盗んだものです。

これも後世の学者が近畿天皇家の一元主義から出た事です。天孫降臨の地は宮崎県の高千穂の峰とされていますが、それも変ですよ。筑紫の日向の久士布流多気(つくしのひむかのくしふるたけ)に降りて瓊瓊杵の尊(ににぎのみこと)がこう言ったのです。「此の地は韓国に向かい、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真木通りて、朝日の直刺す国(たださす国)、夕日の日照る国なり、故、(かれ)此地は甚吉き地(このちはいとよきところ)」[書記神代巻、天孫降臨]

この言葉をどう思いますか?

宮崎の高千穂から海は見えません。〔ここにも私は行きました〕結論を言えば高千穂の峰とは博多湾岸と糸島郡との間の高祖山を中心とする連山です。そこから韓国に向かって太い通路が一線に通り抜けている。大陸への交通の要地です。つまり〔伊都(前原)→末盧(唐津)→一大国(壱岐)→対海国(対馬)→狗邪韓国(釜山)と言う三国志の幹線道路です。


まだまだ他にも有るのですが長くなりました。


来週は神武の事や神話を書きます。