お早うございます。
先週の続きです。
百済系の三資料がいう日本と言う国号や「貴倭」「倭国」「日本」「天王」「日本の天皇」などの名称はいずれも九州王朝の事です。百済本紀に筑紫の君葛子(くずこ)、筑紫の君薩野馬(さちやま)と、もっと重要な資料は『隋書俀国伝』です。
開王20年、俀王有り。性は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雛弥(あわきみ)と、号す。つまり〔阿輩君〕とは〔日出ずる処の天子〕と誇称した君主〔天の足りし矛〕の尊称であり、これが7世紀前半の九州王朝です。
津田左右吉の学説では神武天皇という人物は虚構であるとこれが現代学界の定説だと言われて来ました(後に“津田史学”とまでいわれた)。
それを継承したのが井上光貞でいまだにそれが続いています。
ところが那珂通世は(明治期の学者)『日本書記』(帝王本紀)の編者は神武を第一代だと考えたのではなく、前王朝を武力で倒したとみなして王朝の交替だと、そしてその事実こそが現王朝〔近畿天皇家〕の始まりだと…??
神武は何処から来たのでしょう?勿論九州からです!九州王家の傍流の息子です。天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひだかひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)あまり長いため通称で(ウガヤフキアエズ)と言い、幼名は狭野命(さののみこと)、これが神武の名前です。
兄が一人います五瀬命これは今まで(いつせの命)と読まれて来ました。最近では(ゴカセの命)と読まれています。この兄弟の生まれたところは、大分県南辺の五ヶ瀬川近くだと言われています。その岸に[佐野]があります。
兄弟は九州を飛び出して東へ向かったのです。この事は『日本書記』『旧事記』などによく出てきます。天一族に隠れて話していて、天照が疑っているなどの描写が多くありますが、ここではとても長くて書ききれませんので省きます。
何で神武の事を書くかと言えば、現代でも使われている言葉に関係があるからです。
神代紀の天の石屋戸(いわと)の段や旧事紀などにも出てきますが、神武が近畿に向かう時には「下る」と言う言葉が良く出てきます。それは天皇家から遠ざかるから「下る」と表現し、反対に近ずく時は「上る」と言っていました。
今では東京に天皇が居ます。東北からも、京都からも東京に向かうときは上りですよね。昔はその基準が京都でした。
一番古い王朝が出雲ですから、出雲の大国主の命が九州の天照に国譲りをした有名な国譲り神話です。この時スサノオの尊や、ヤマタの大蛇の物語などが出てきますが、この神話には完全に近畿は一切出てきません。江戸時代は江戸に行く事を東下りと言い、反対は京に上がると言いました。このことから考えても、古代では九州に天皇が居たのです。
日本書記や古事記や旧事紀などに出て来る出雲や九州の神話など、どうしても短時間では書ききれまませんね。
明日は倭の五王とか高句麗好太王の碑文の事を書きます。