仏教の許容性と神の危険性 | モノゴトをオモシロくスルドく見る方法「かふてつの方丈記 」

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How to look everythings essentially
or
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※去年書いた記事ですが、アメブロにはUPしてなかったので今更ながらUPします。

 

昨日(2017/12/08)、小西玲太朗さんの映画「ARTISTORY」を観てきました。

 

 

いろいろ考えさせられる所はあったのですが、特に響いたのが、映画で語られる「仏教の許容性と神の危険性」の件。私が常日頃考えている内容とピッタリ一致してしまい、「やられた!!」と思いました。映画では多くは語られていないので小西さんと私とで考えの相違はあるかと思うのですが、私なりの解説をして見ます。

 

なお、私は buddhist なので涜神的な発言になるかも知れませんが、異教徒の妄言としてご容赦下さい。

 

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まず。「神の危険性」。敢えて補足するとここで言う「神」はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一絶対神=the Supreme Beingを指します。日本の天照大神とかの汎神論的な神様とは違うのでご注意下さい。

 

 

 

the Supreme Beingが危険な事は旧約聖書のしかも最初の創世記で既に明記されています。ソドムとゴモラで大量虐殺をしてますし、アブラハムに息子のイサクを犠牲にせよと試したり明らかに理不尽な行為も行っています(イサクは老齢の夫婦から奇跡で生まれた子なのです)。

 

 

 

極めつけはノアの箱舟の話。人類を始め総ての生きとし生けるものを大洪水で一旦絶滅させてしまいます。で、ノアに箱舟作りを命じて各種一組ずつ優秀なのを生き残らせますが、これは優生思想に直結する極めて危険な発想です。この結果、ヒトラーや相模原障害者施設大量死傷事件の犯人が発生してしまいました。

 

 

 

何様の積もり?と聞きたくなりますが、「神様だ!」と開き直るでしょう(私だったら「オレ様だ」と開き直る)。

 

聖書は昔話として置いとくとしても、the Supreme Beingはその絶対性故に何が「絶対」により近いか、と言う意味で「優劣」をつけてしまいます。私は前のバットマン、ウルトラマンの投稿に記した通り、物事は「相対性」や「二面性」の文脈の中で定位されるべきで、「絶対」なんてのは絶対有り得ないと考えています。

 

でも、「神の絶対性」からはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教が生じ、同じ宗教の中でも考え方の違いにより宗派が生じ、自分とは違う考えを否定して、最後は殺し合いを始めます。これは世界史の基本的なおさらいですが、なんで殺し合うのかと言うと、繰り返しになりますが、「絶対」から「優劣」が生じ、みんな自分は「優」だと信じているから「劣」を否定してその存在を許さないからです。

 

 

 

だから、the Supreme Beingは人間に殺し合いをさせます。故に危険なのです。

 

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一方「絶対神」が独占している「真理」を探求して自分の優位性を高めたいと考える人も生じます。その結果出来たのが、科学でありテクノロジーなのです(哲学とか文系のもあるけど)。私達はテクノロジーの恩恵を受けてヌクヌクと幸せに生きています。これは「絶対神」の良い所のように見えるけど、行き着いた先に、あとみっくえねじーとか遺伝子操作他、倫理的にどうかと思うような課題も作ってしまいました。

 

 

ここは小西さんの「ARTISTORY」の後ろの方に繋がる部分です。

 

これが良いのか悪いのか軽々に決めつけるのは不遜だから、私は良識があるので決めつけはしません。

 

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明らかに話が長くなっているので、もう仏教の話に移ります。

 

仏教は元々個人が過酷な修行を経て悟りを開く、と言う個人的なストイシズムから生じました。こういうのは小乗仏教と言います(上座部とも言う)。そのうち、個人的なストイシズムから、広く衆生を救いとるという大乗の概念が既にインドで発生します。小乗→大乗の流れは今 Wikipedia を見たらかなり複雑なようなのでこれ以上語りません。

 

 

 

小西さんが仰る仏教はお住まいがあるタイ文化にインスパイアされた物のようですが、タイの仏教も上座部で、より生活に密着しているが故に複雑なので、安易に語れませんが、タイでは仏教徒は一旦は必ず出家をするのが慣わしになっているようです。街中でもよくオレンジ色の僧衣を纏ったお坊さんが托鉢してるのを普通に見ますよね。寺院や僧への寄付することをタンブンと言い、徳を積む行為として奨励されているみたいです。背景に輪廻転生の思想が有り、徳を積めばより良い来世が期待できるからです。

 

 

 

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私が解るのは日本の仏教だから、日本に限った話にします。

 

日本には大きく括って、ストイックな禅宗、オカルティックな密教、大衆向けの浄土宗の三系統があります(少し乱暴なのは承知。日蓮宗はワザと忘れた事にする。)。でも、考え方が違うと言って、相手を否定するような事はしません。叡山の僧兵みたいな乱暴なのも居ましたが、教義の違いで殺し合うなんて事は絶対しません。  

 

 

そもそもその前に神道がある訳だから、(汎神論的な)神様もいるのに、神様も認めちゃいます。本地垂迹とか屁理屈をつけて、神様も仏教に取り入れてしまうのです。

 

 

あと、特に密教では最初からヒンズー教の神様がいます。××天というのは、元はヒンズー教の神様なのです。前も書いたけど大黒天はヒンズー教の暗黒神マハーカーラだし、帝釈天はインドラです。現に帝釈天の真言(マントラ)はオン・インドラヤ・ソワカなのだ。

 

 

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繰り返しますが、仏教は個人的なストイシズムから発生したのに、大乗仏教として日本に来たら、親鸞聖人が肉食妻帯何でもアリにしてしまいました。

 

そもそもお釈迦様自体がそうですよ。お釈迦様はゴーダマ・シッダールタという王子様で奥さん子供がいるのに、放ったらかしにして、自分だけ勝手に悟ってお釈迦様になっちゃうのです。しかもスジャータというカワイコちゃんにお粥を貰って喜んじゃったりするのです(喜んだという記録はないが、絶対喜んだと思う)。

 

 

 

こんなの、今だったらゲス不倫じゃないですか。週刊文春は斉藤由貴を叩いているヒマがあったらお釈迦様を叩きなさいよ。

 

しかし、お釈迦様はゲス不倫野郎にも拘わらず、悟りを開いたが故に評価されて尊敬され、仏教という宗教の開祖となるのです。週刊文春も斉藤由貴の女優としてのシゴトを評価してリスペクトすべきだと思う(「真田丸」の阿茶局は絶品だった)。

 

そんな意味でも、仏教は許容的だし、逆にアメーバのように何でも取り込んじゃうからある意味もっとタチが悪いです。

 

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日本は仏教国で許容的だから、そこが良い所だと思うのですが、最近は許容性が欠けて来つつあると思います。危機感持ってます(だから相模原の事件とか起こっちゃうと思う)。もっと日常生活でも buddhism を意識して見てはいかがでしょうか。 buddhist として切に願います。どうせ死んだらお寺のお墓に入るんでしょ。だったら尚更だ。

 

 

街はもうクリスマスで浮かれてますが(執筆当時)、私は許容的な buddhist だからクリスマスを祝うのは非難しないけど、花祭り(4/8 お釈迦様のお誕生日、灌仏会とも言う)もお祝いして欲しいです。

 

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なお、「ARTISTORY」は三部作を予定されていて、第二・三部はこれから公開予定です。公開されたら是非オススメします。

 

https://youtu.be/OUdB0fHoHS0