(続き)
最後の「ダークナイト ライジング」(個人的にはこれが一番好き。アン・ハサウェイのキャットウーマンが良いから)では最後、”サクリファイス”とも言える行為に及びます。
”サクリファイス”はキリスト教ではイエスの受難を再現する「聖なる行為」と位置づけられいます。バットマンはこれで自分を浄化する訳です。
こうして「ダークナイト三部作」は完結します。
つまりクリストファー・ノーランのバットマンは「正義の味方」なんだけど、「正義の味方」故に「正義とは何か」「悪とは何かと」言う問題に直面してしまい苦悩し自問する存在とされているのです。
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次はジャパニーズヒーローのウルトラマンです。
ウルトラマンでも作家の金城哲夫らが悩みつつ制作していた様子が、切通理作の著作などで紹介されています。(金城哲夫は沖縄出身なので、背景に”沖縄目線”が大きく影響している事などを指摘しています)
ここでもやはり、「悪」として怪獣を殺してしまうウルトラマンが果てして「善」と言えるのか、制作者も苦悩していたことが窺えます。
分かりやす過ぎる例として、帰ってきたウルトラマンの問題作「怪獣使いと少年」などがあります。
他にも、「ジャミラ」とか「ギエロン星獣」とか同情すべき怪獣も、怪獣であるが故に殺されてしまいます。(バルタン星人とかペガッサ星人、ノンマルトルとかもそう)
これには、制作者側も、”懐疑的・否定的な見解”を敢えて出演者に語らせていて、「善」「悪」がそう簡単に割り切れるものでは無いことを示しています。
これは制作者が一定の「理性」「知性」「誠意」を以て、作品作りをしているということです。
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両方に共通するのは「正義の味方」というのはそんなに簡単・単純なものでは無いということです。
現にフィリピンのヒーローを演じているドゥテルテは国連から非難されてしまったりします。
こんな具合に、「ヒーロー」について考え始めると、色んなシリアスな問題に突き当たってしまうのです。でも、これでは「ヒーロー」を「ヒーロー」として楽しむことが出来なくなってしまう。
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だから、「ヒーロー物は深く考えずに楽しんで観るべき」と割り切ってしまうのも必要なのかなと、思ってみた次第です。
(ヒーローの苦悩 終わり)