ヒーローの苦悩(上) | モノゴトをオモシロくスルドく見る方法「かふてつの方丈記 」

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昨日、「アメリカンヒーローとジャパニーズヒーロー」と言う題でブログを書いてみました。


その中では「アメリカンヒーローは××である」「ジャパニーズヒーローは××である」という、言わば「結論」までは書き切れませんでしたが、

 

実はその後も考えてみました。

 

例えば、ヒーローは善で敵は悪である、とすれば善とは何か、か悪とは何か、それを社会や歴史(特に裏側の黒歴史)、宗教、民俗学などと絡めながら考えてみたのですが、そしたらちょっとコワい結論となっしまった。

 

それは、コワくてここではココでは書けません。

 

そこでもう、こういう結論とするこしとにしました。


「ヒーロー物は深く考えずに楽しんで観るべきである」 と。

 

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でも、これでは読者は納得しないだろうから、制作者が作品中で提示した物をヒントとして指摘します。制作者もこの問題に悩みつつ、作品作りをしていることが解るからです。

 

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まず、「アメリカンヒーロー」はバットマンでクリストファー・ノーランの「ダークナイト三部作」。

 

最初の「バットマンビギンズ」では元々苦悩を抱えていたブルース・ウェインが苦悩を克服するため鍛錬を重ねて強くなり、ゴッサムシティに戻って「バットマン」という正義の味方になることで自分の存在意義を見いだそうとします。そしてヴィランを一掃するのですが、それで苦悩が解消された訳では無い。

 

次の問題作「ダークナイト」ではジョーカーが登場します。このジョーカーは、金や名誉と言った「目的」には関心が無く悪のためだけに悪を働き、善悪のバランス上でかろうじて生きている人間を悪に引きずり込む事を無上の喜びとしている、「絶対悪」として描かれています。

 

これは、クリストファー・ノーランが考える「悪そのもの」を具現化した存在と思います。(演じたヒース・レジヤーもやっぱり偉いと思う)

 

この「絶対悪」に対峙したバットマンは、果たして自分は「善」なのかと、自分の存在意義自体に疑問を持ちます。(ここは映画で直接描写されている訳では無い)


最後は、「悪」という言わば十字架を自ら背負うことを決意し、「大衆が望む正義の味方」というヒーロー像を自己否定するような行為に及びます。

(ネタバレを防ぐため、敢えてよく判らないような書き方をしてます)

 

(続く)