歴史の裏
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リハビリ入院

 極楽?

 

 今のリハビリ病院に転院してから25日。自由に行動できないことを除けば「極楽」である。阿弥陀如来が説く「極楽浄土」は、心が安定して苦しみがない。周囲には七宝で飾られた木々があって、手に届くところに食べ物があり、水は好む温度になり、水につかると好む位置に水が満たされる。 何不自由ない生活ができるという。しかし、こんな悩みも試練もない生活なんて御免だ。この病院はこれに似ている。リハビリは少しはきついが、それ以外は快適そのものの「極楽」。看護師も理学療法士も作業療法士も言語聴覚士もいい人ばかり。何か頼むとすぐやってくれる。至れり尽せり。家族に「極楽だ。ずっといてもいい」と冗談を言っている。しかし、こんな「極楽」になれると、人はろくなものにならない。早く脱出することだ。

新聞を読まない

 新聞読まない

 

 最近は新聞を読まない、テレビを見ない人が増えているという。本なんて実用的なもの以外は読まない。情報はもっぱらスマホ。だから、スマホで検索したもの以外の情報は知らない。誰かが「こうなんだって」と言うと真偽を確かめずに信じてしまう。そして炎上する。怖い世の中になった。

 今入院しているリハビリ病院は若い人が多い。試しに聞いてみると、今世界で起きていることを全く知らない。トランプ大統領の手放題の行動、ベネズエラの大統領拘束やイランの最高指導者殺害、イランへの攻撃、地球温暖化は作り話と言っていることなどを話すと私の話の真偽も確かめず驚いている。新聞だけじゃない。書物もなくなる世の中が来るのか。

 これからの世界はどうなってしまうのか。90近い老人が嘆いても詮無いか

 

長期入院して

長期入院して 

 

リハビリ病院へ転院

 体が全く動かなくなって1月21日に救急車で入院、45日後の3月5日、現在のリハビリテーション病院へ転院した。手術などで入院は6回目だが、いずれも2週間足らず、これだけ長期入院したのは初めだ。これまでは闘病に専念していたので、病院のことまで気が回らなかったが、長期入院でいろんなことが分かった。

 

やることがない

 救急車で運ばれたため、必要なものが全くなかった。後で家族に運んでもらった。病状が落ち着いてから感じたのは回復期にある患者にとって、病院は退屈以外の何ものではなかった。やることが全くなく、ただベッドに寝ているだけ。本を持ってきてもらったが、ベッドの上で一日本を読んでいると、背中や腰が痛くなるから、すぐ寝ころび、読んでいる時間より、寝ころんでいる時間の方が長い。その上、本ばかり読んでいると飽きる。ほかにやることが全くない。

 

すぐ来てくれない

 次に、病院にもいろんな人がいるということ。入院したナースステーションの看護師は「どんな些細なことでも言ってください」というが、実際はナースコールを押してもすぐには来てくれない。場合によっては30分後なんてこともある。私は脱肛で便が出たくなるとすぐ出てしまう。待っている間におむつに中におもらししてしまうことが度々。特に夜中はおしっこの回数が多い。たびたび呼ぶので申し訳ないと思うが、必ず呼んでくれと言われた。実はおしっこが出た直後に便を催すことが多い。そうなると、呼びだした直後にまた呼ぶことが多い。そいう事情はナースステーションに話してあるが、中には「さっきしたばかりじゃない!」という看護師もいる。そうなると「もういい」となる。「水が欲しい」と言っても「そんなことは序の時に言ってくれ」という人もいる。

 

問い合わせない

 8日投票の衆議院選挙。病院で投票できるというので登録した。ところが、当日「選挙は何時にできるのですか」と聞いても、若い看護師が「ここは病院だから選挙はできません」という。「でも登録してある」と言っても、「選挙はできない」と言う。そばにいた年配の看護師に聞いても「選挙はできない」の一点張り。しばらくすると、事務所の人がナースステーションに投票箱を持ってきた。目の前で投票するので、投票の秘密は保たれなかったものの、選挙はできた。ナースステーションの看護師は事務所に聞いてくれようとしない。最近この例に限らず自分の分からないことを聞いてくれない人が多くなった。

 

日程が分からない

 私は現役時代忙しい仕事に携わっていたので待ち時間が耐えられない。せめてレントゲン、CT、MRIやリハビリの時間を知らせてくれればいいのに、突然やってきて「検査です」と言う。病院には「患者は病院の言うとおりにすればいい」という思い上がりがあるのではないか。

 ところが、転院した今のリハビリ病院は、その日の日程をデイルームの映像で表示するとともに書いた紙を渡してくれる。これで何時からは何をするのかが分かり、その間にパソコンを打打ったり、スマホをチェックしたりできる。このリハビリ病院の職員は皆親切でいい人ばかり。些細なことも頼めばすぐやってくれる、至れり尽くせりだ。どういう教育をしているのだろうと感心しきりである。

体が動かない

  体が動かない

 

妻は末期がん

 妻は2年前に腎臓がんが見つかり、入退院を繰り返し末期を迎えていた。初めは病院で死を迎えるつもりだったが、食事などの要因で「こんなところで死にたくない。家で死にたい」と言って家に帰っていた。58年間連れ添ったので、妻の望み通りにしてあげたいと、覚悟を決めた。しかし、12月8日以降、体が思うように動かず、朝食の支度に4時間もかかった。普通なら5分で行ける直近のスーパーまで30分もかかる。妻の介護が難しくなってきたので万一に備え、妻には2か所の緩和病棟を予約しておいた。

 

妻が死去、私は入院

 ともかく年を越えたものの、1月21日になって、体が全く動かなくなった。そのころは息子と娘が毎日のように来ていたので、息子に救急車を呼んでもらって、総合病院へ緊急入院。その後、近くの総合病院へ移動。検査の結果、頭の両側に血種があるので、手術をすることなった。後で、聞くと妻は同じ日に緩和病棟に入院していた。

 私が手術待ちの1月24日に妻が死んだ。葬式は28日だが、私は身動きもままならない。子供たちが手配し介護タクシーで告別式の会場へ行き、告別式に出て棺が焼却炉に入るのを見届けて病院へ戻った。私の手術は翌29日。綱渡りだった。この辺の事情はよく覚えておらず、後で息子に聞いて確認した。息子と娘は妻の病院と私の病院を行ったり、来たり。その間にケアマネや、訪問診療の医師、看護師との打ち合わせに、ずいぶん苦労したようだ。息子は不動産屋に勤めていて極めて忙しく、娘の司法書士の仕事と、ぜんそくの子供の面倒を見ながら、時間をやりくりして頑張った。いい子供たちを持って幸せだと言えよう。感謝している。

 

リハビリ病院へ転院

 手術は成功、快復は医師も看護師も驚くほど早く、45日入院後、3月5日に家の近くのリハビリテーション病院に転院した。ここでも快復は早く、転院時はやっと歩けるほどだったが、今では杖なしで、スイスイ歩けこれなら近くのスーパーまで買い物へ行けそう。この病院も長くはないだろう。ここは職員が皆親切で至れり尽くせり、食堂には自動の飲み物抽出器があって、コーヒー、紅茶、麦茶、麦茶、水・お湯が飲み放題。いつまでいてもいいくらい居心地がいい。退院するのがおしい。

スマホ社会

  老人も

 

 私が主宰する文章とスピーチの教室に新入会員が入った。古希を迎える女性。この教室は前半が前の会に提出した作文に対する私の講評と、1分間スピーチ、それに自分で選んだテーマでのスピーチ。後半は作文を書く。作文のテーマは当番が出す。1分間スピーチは小さな紙に各人が書いたものを伏せておき、裏返したま混ぜ合わせ各人に配る。もらった人は紙を表に返してそのテーマで1分間スピーチする。作文はその場で出されたテーマについて1時間で原稿用紙2枚以内に書く。

 教室は雑談禁止。かなり厳しいので、会員は終わってから会場内にある食堂でお茶をする。そこでの雑談が楽しくて参加する人もいるようだ。新会員もお茶会に参加したが、彼女は隅の席でずっとスマホを見ていて話の輪に加わろうとしない。これでは何のためにお茶会に参加した。子供たちが「遊ぼう」と言って各自スマホを見ていることが話題になっているが、スマホ依存は老人にまで及んでしまったのだろうか。

ソフトバンク店員

  「その方がいいじゃん」

 

 3年前に買った簡単スマホの電源が入らなくなったので、近くのソフトバンクの店に行った。女性店員が「今日は予約は終わりです」と言う。意味が分からなかったが、2日後の10月18日に予約を入れてもらった。20代前半と思われる男性店員が対応した。「電源入らない。だめだね」と言うから新品を買うことにした。

 

1円で乗り換え

 私はスマホはほとんど使っておらず、ただ持っているだけ。出かける時、妻が「歩数計持った」と聞くから、これは「歩数計と言うんじゃないよ。スマートホンと言うんだよ」と言っている。メールが来るがほとんど迷惑メール。受信画面は消すためだけにある。ただ、太極拳と文章教室、それに孫とラインをしている。後はニュースを見ることと電卓機能を使うぐらい。そんな話を店員にすると、「乗り換えたら? そうすれば費用は1円」と言う。「えッ!」と驚く。何を言っているか理解できない。

 よく聞いてみると、私は自分のスマホが何のかも知らなかったが、Ymobileだったが、ソフトバンクに乗り換えると1円で済むらしい。この店はソフトバンクとYmobileを兼ねている店のようだ。その代わり、毎月の費用は約2500円から3500円になる。迷っていると「半年でまた乗り換えれば費用は元に戻れるよ。その方がいいじゃん」と言う。「何もわからないから基本的な設定をしておいて」と言ったら、私の身長、体重を聞いて歩数計を入れてくれた。

 

メールもラインも入ってない

 家に帰ってメールをしようとしたら画面のどこにもない。ラインも入っていない。太極拳や文章教室の仲間やたまたま来た息子にも聞いたが分からず、22日に太極拳教室の帰りに別のソフトバンクの店に行った。メールもラインも入っていなかった。だめになったスマホのアドレスは使えないから、新しいアドレスを設定してセットしてもらった。家に帰ってさっそく、仲間にメールしたが、うまく送信できず、いまだにラインは復活していない。また聞きにいかなくちゃ。

 

友達言葉

 それにしてもソフトバンクの店員は2人とも友達言葉。学校や家庭で丁寧語を教えていないのか、ソフトバンクは客に対して丁寧語を使わなくてもいいと教えているのか。別世界に来たかと面食らった。

妻Ⅳ

  結婚後

 

 新居は「偉大なる田舎都市」郊外の新造団地。名鉄の駅から約1㌔。団地の裏側は現在は広大な道路になっているが、当時はせせらぎが流れていて、夏には蛍がたくさんいた。駅からせせらぎ沿いに歩き、蛍を取って蚊帳の中に放つ。とても幻想的な新婚生活だった。私は編集の内勤。夕刊番以外は昼頃起きて夕方出勤。今と違って新聞は未明まで作っていたので毎日深夜帰宅。時には4~5時になり、夜が白々と明けるようなこともあった。妻は私が帰るまで団地内のブランコに乗って待っていてくれた。「そんなことしたら体を壊す」と言ってやめさせた。

 2人はものの考え方も世間への姿勢もほぼ正反対。私は世の中のしきたりに反発して不合理なことには従わないが、妻は世のしきたりをきちんと守る。私は仕事が大好きだが、妻は家事が大好き。フルタイムで働いていた時期も、育児、炊事、洗濯、掃除をすべてやりきる。東京に帰って私が建てた家は二階建て、両親と同居していたことから広い。リビング、食堂、台所が別にあり、居間のほか寝室4室もある。それを毎日掃除して拭き掃除までこなしていた。これでは身が持たないので、私が手伝うからと言って掃除は週1にさせた。

 

旅行好きは共通

 何もかも違うが、共通点は旅行好きなこと。私は本当は一人旅が好きなのだが、妻はとても寂しがりや。結婚してからは仕事や仲間との旅行以外は妻との旅行だった。海外を含めいろんなところを旅した。私は車を運転できない(単身赴任の時免許を取ろうとしたが、私が極端な不器用なので、「免許を取ったら人を殺すからやめなさい」と言って妻が許してくれなかったから)妻が免許を持っている間は妻の運転で、その後は旅行会社のツアーに参加していた。日本ならほとんどの都道府県(私は仕事を含めすべて)へ行った。

 私は昔は酒を飲めず、付き合いで飲むようになったから、一人で飲む習慣はなかった。妻は若いときには飲まなかったが、私が飲むようになってから飲むようになった。妻が「飲もうか」と言った時だけ飲む。妻はキッチンドリンカーだから酒を置いておくとすぐなくなるから家に酒は置かない。妻が飲みたいときには私が買いに行く。ロング缶2本とワイン1本買ってくるが、妻が6割は飲む。妻は魚大好きで3度食べてもいいくらい。妻が会社の飲み会で夕食を一人で食べることになった時、「寿司でも取ったら」と言った。「女房がいないに何で大嫌いな魚なんか食うか!」と抗議すると、妻はきょとんとしている。私は魚が大嫌いで「サバの味噌煮を食べる人とは結婚しない」と言っていたのに、どういう因果か魚好きと結婚してしまった。2人で外食するときは妻に合わせてほとんど寿司屋だったから、私が魚を嫌いなことを忘れてしまったのだろうか。

 妻は人に好かれる。知り合うと付き合いたい人がたくさんでてくるが、妻は付き合うのが嫌いだ。それは相手を不愉快にさせないよう極度に気を使うためで、本人はへとへとに疲れてしまうようだ。「自分を飾らず裸で生きていけばいいじゃないか。それが嫌な人とは付き合わなければいい」と言っているが、できないようだ。

妻Ⅲ

  新婚旅行

 

 58回目の結婚記念日は無事迎えられたが、永久の別れが近い妻との思い出

 新婚旅行は本土復帰前の沖縄と南九州。パスポートを取って行ったので、これが最初の海外旅行。通貨は米ドル。沖縄は3泊4日だったと記憶しているが、旅費がとても安かった。4日間ガイド付き、2人でネット144㌦。当時のレートは360円だから51840円。私の月収より安かった。ガイドは那覇空港に車で迎えに来てくれた。一応推奨コースはあったが、こちらの要望でどこへでも行ってくれた。妻は美粧院(そう呼んでいた)にも行った。一日は庶民の生活が知りたいとガイドと別れバスに乗って中城城跡へ行った。沖縄旅行ではここが一番心に残った。古い城跡とエメラルドグリーンの海とのコントラストが絶妙だった。首里城は正殿が戦災から復興しておらず、守礼の門だけで平凡な城跡だった。面白かったのはバスの運転手がサンダル履きで運転席の後ろに自分のシャツをハンガーに架けて干していた。当時はそれが当たり前のようだった。

 国際通の蛇皮製品の店で土産を見た後、店続きの工房で製作工程を見学した。店から工房へは靴を脱いで間のすだれをかき上げて入った。振り向くとすだれはニシキヘビの皮だった。妻に「蛇だよ」と言うと、「キャー!」と大声を上げ、裸足のまま店の中を突っ切り約20㍍先の大通りまで駆け抜けた。店の人は何が起きたのか分からなかった。私は知らなかったが、妻は「蛇」と言うだけで身震いするくらい大嫌いで、絵を見るのも嫌。私が土産を見つくろっていた時は遠くにいて見ないようにしていたらしい。息子が小学校高学年の時にバレンタインデーにはたくさんチョコレートをもらってきた。冷やかされるのが嫌だったのか、チョコレートを入れた机の引き出しの一番上に蛇皮のベルトを置いていた。妻は引き出しを開けられなかった。

 帰りに30㌢ほどの巨大なパイナップル(当時はパイナップルは本土ではほとんど見られず、大変珍しいものだった)を2つ買い、長い葉を持って移動していたが、宮崎空港の植物検疫で葉を切られてしまった。当時は沖縄は外国だから葉についている虫を持ち込んではならないという理由だった。葉を取られたので持ち歩くのに難儀した。宮崎の都井岬ではホテルの人が「やせい馬がいる」と言ったので、妻が「安い馬なら買って帰ろうか」と言った。妻は野生馬の存在を知らなかった。         (つづく)

妻Ⅱ

  出会い前後の思い出

 

 妻との別れが近いことは9月18日付で書いた。今のうちに、妻との思い出を記しておきたい。

 

全舷

 出会いは、今風に言えば合コン。かつて新聞は年中無休で、新聞製作をしないのは元日と5月5日(なんでこどもの日なの)と秋分の日の年2回の新聞休刊日だけ。それ以外の日は誰かが仕事をしなければならないから、その2日は特別な日だ。留守番だけ置いてすべての職場が羽を伸ばす。それを「全舷」という。旧海軍が使っていた言葉を引用したといわれる。旧海軍では港に着くと乗組員の半分が上陸することを「半舷上陸」と言った。実は海軍は全員が上陸することはなく「全舷上陸」という言葉はなかったが、新聞社は全員が職場からいなくなるので「全舷」と言った。

 その日は職場ごとに全員参加の親睦旅行だった。行先は車で帰れる場所が必須。とてつもない事件が起きたら全員が帰れなければならないから、天候によって帰れなくなる船や飛行機を使うのは厳禁。離島や、本州から北海道、四国、九州は旅行先に選べない。「親睦旅行」と言っても、全員が集まれるのはその日しかないから、ハチャメチャのどんちゃん騒ぎ。全舷幹事は客室にある掛け軸や置物などは事前にみな撤去させた。そこそこの旅館だと結構な物も多く、破損したら弁償できないほどの額になるからだ。いろんな伝説がある。どうして上ったか知らないが、二階へ上る階段の裏側にへばりついていた人がいた。酔っぱらって温泉に入りそのまま浮き上がってしまった人もいた。その職場は次の年は全舷中止。

 

全舷ボイコット

 1964年東京オリンピックへ備え例年に比べ大量採用したのが私の入社一期下の人たち。集団ができており、彼らは「おじさんたちとの飲み会なんてバカらしい」と全舷をボイコットすることにし、一期上の私にも誘いがあった(後に全員参加が慣行だった全舷ボイコットは社内で大問題になった)。社内の女性に声をかけ、男性と同数の女性を集めて合同ハイキングを企画した。行き先は揖斐峡。人造湖でカップルがボートに乗った。

 どういうわけか私が最後になり、トイレに行っていて乗り遅れた女性が私のボートに乗ってきた。私はボートを漕ぐのは初めて。漕ぎ方も分からないうえ、生まれながらの極め付きの不器用。ボートは真っすぐに進まない上、水がバシャバシャ体にかかる。対面に座っていた女性が「私が漕たい」と言って代わった。後で分かったが、この日のために新しく縫った服(当時は自分で縫う女性が多かった)を着てきたのだそうだ。新調の服がびちゃびちゃになったからだという。そして、時間までに係留場所に戻れず、ボート場の係員にモーターボートで迎えに来てもらう始末。女性は「この人は私がいなければ生きていけないかもしてない」と思ったのか。結婚して確かめたが「そんなことはない」と否定していた。

 

食事を誘った人の友達

 その後2人の関係が進展したわけではない。職場もフロアの違うので出会いのないまま時が過ぎていった。当時、私は新聞編集を担当する内勤で、宿泊勤務も多かった。宿直明けに洗面所で顔を洗っていたら、労組書記局の女性と出会った。宿直明けは事件さえなければほぼ正午に退社できた。一人で昼飯を食うのは退屈だったから、彼女を昼食に誘った。その女性は独身男性の中では「あんぱんのへそ」のあだ名で呼ばれていた。丸ぽちゃのそれなりに可愛い人だった。何回か一緒に食事をしていたが、ある日、彼女が友達を連れてきた。それがボートの女性だった。しばらくは3人での食事が続いたが、そのうち、私はボ-トの女性だけを誘うようになった。背はそれほど高くはなかった(153㌢)が、スタイルがよく独身男性の間では、当時流行った「トラグラ(トランジスタグラマ)」とあだされていた。高校を卒業したばかりの世間ずれしていない純朴さがあり、子供のように可愛かったからか、女性仲間からは「コルコちゃん」と呼ばれていた。当時薬局の前に置いてあったコルゲンコーワの人形で、頭を叩くとコクンコクンとうなずくかわいらしい人形が「コルコちゃん」。

 彼女は初め何となく遠慮深かった。後で分かったが、書記局の女性は仲間に、私から結婚を申し込まれたと言っていたらしい。当時「偉大なる田舎」では、男女の交際自体が異様な目で見られていたのだろうか。私は退屈しのぎに昼飯に誘っただけなのに、彼女は特別なことととらえていたかもしれない。そういえば、このころ、こんな体験をした。若い女性の集まりにゲストとして呼ばれた。20人くらいの出席者が「夫の気の休める家庭をつくりたい」と異口同音に言うものだから、私は「あなた方はどこで気を休めるのですか」と聞くと、「そんなことを言うのはおかしい」と袋叩きに遭った。今の人たちには信じられないだろうが、当時の「偉大なる田舎都市」はそんな雰囲気の街だった。

 ともかく「コルコちゃん」との交際が続き現在に至った。        (つづく)

   別れの時近づく

 

昨年肝がん発見

 10月に結婚58周年を迎える。それと前後して妻との永遠の別れが訪れようとしている。

 2023年ごろから妻は腰の痛みを訴えて近くの整形外科に通っていたが、もしかすると内臓かもしれないと、2024年3月、行きつけの内科を受診、超音波検査で肝臓に腫瘍が見つかったため、その日のうちに大学病院へ。CT検査の結果、肝臓に93ミリ(現在は110ミリ)の腫瘍があることが分かった。いろんな検査をしていたが、腰の痛みの原因は分からないまま。4月23日になって腰が激痛に見舞われ、急遽入院。抗ガン治療をしていたが、骨髄への転移が分かり、連休前の5月2日深夜に手術して骨髄の外に出ている部分だけがんを切除、がんが神経に触れないよう背中にチタンのボルト8本を埋め込んだ。 その後、抗がん剤を投与すると副作用で吐き気がしたり、嘔吐したりして食事ができず体力が落ちるので、抗がん剤を替えながら入退院を繰り返していた。

 

肺に水が貯まる

 2025年7月3日に2番目の抗がん剤の服用を休止して体力を回復し、新しい抗がん剤を服用するため9月16日に入院予定だったが、3日に息苦しくなって近くの内科を受診すると、レントゲンで右肺が真っ白。救急車で大学病院へ運ばれ緊急入院。がんが肺に転移しているという。肺に水が溜まっているので肺の水を抜いている。16日から痛さと麻酔薬のせいか意識がもうろうとしている。まともな会話ができない。

 水は間もなく抜けるというが、担当医師によると、今服用している3番目の抗がん剤が効いて腫瘍が小さくなるかもしれないが、また水がたまるかもしれない。体力も衰えているので何が起こるか分からない。万一の時の措置を聞いておきたいという。17日に医師はすべての医術を尽くして一日でも延命するのか、延命はしないのか聞きたいという。私と息子は「苦しむために長生きはさせたくない」から延命措置をしないように指示書にサインした。

 今後は抗がん剤の効き目を期待しつつ過ごすしかないが、その時が迫ったら緩和医療病棟へ移るか自宅へ戻るのかの選択を迫られている。妻は先祖の墓がある長野県木曽福島へ墓参したい望みを持っているが、叶えられそうもない。68年間共有した夫婦の生活は終わりを迎えようとしている。

 

方向が違う2

 妻と私は恋愛結婚というわけではない。付き合いが長かったので結婚することになった。今なら結婚しないで付き合いを続けることもできるかもしれないが、昭和40年代では、未婚の男女が結婚もしないで付き合うことは親族も周囲も認めてくれない。持てない私は付き合ってくれる女性が貴重だったのだろう。妻は何を聞いても答えを持っている私を「先生のようだ」と言い、一緒にいると安心できたのかもしれない。だから、妻も私も「どうしてあなたと結婚したんだろう」と言い合う。よく「生まれ代わってもこの人と結婚したい」という人がいるが、私たちは「来世ではあなたとは結婚しない」と言っている。よくやってきたと思う。たぶん、私が辛抱強かったというより、面倒くさがりで生活を替えたくなかったからだと思う。「破れ鍋に綴蓋」というがどちらが破れ鍋で、どちらが綴蓋なのだろう。

  「戦友だ」という夫婦がいるが、私たちはそれとは程遠い。2人は人生観も性格も全く違う。妻にとっては一番大切なのは家事だったのか。かなりの期間外へ働きに出ていたが、家事をやっているときが一番生き生きしていたのではないか。家事に疲れたとき読むのが本や新聞。いわゆる息抜きのためにある物だ。それに従事している人が命をかけているなんて頭では分かっても、一生理解不能だったのだろう。だから、私のことを何もしないと言っていた。妻にとって「何かをする」とは家事のことだ。人にものを聞き資料を集めて記事を書くなんてことは「何かをする」範疇に入らない。最近私が「俺はジャーナリスト」だといったら、「だって会社を辞めているじゃない」と言う。彼女にとって「新聞記者は給料をもらっている労働者で、給料をもらわなくなったらジャーナリストではない」と思っているのだろう。

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