真・遠野物語2 -21ページ目

真・遠野物語2

この街で過ごす時間は、間違いなく幸せだった。

団員たちは続々と民話通りに集まり、駅から鍋倉山への一本道を市民センター目指して歩いて行く。

 

 

 

隊列が詰まって来ているのか、団員たちは全く切れ目なく俺の目の前を通り過ぎて行く。だいたい2人横並びで行列を形成しているので、最低でも400メートル以上の長さになっている筈だ。

 

 

 

民話通りの信号は動いていて、車も通る。消防団のパレードも信号は守る。隊の途中で分断されてしまったりしないのだろうかと心配していたが、ちゃんと地区ごとにひと纏まりになるように計算して行進しているようだ。

 

 

 

 

 

 

ラッパ隊は祭りでいうところの門掛けのように、商店などの前で立ち止まって演奏して行く。全ての隊がやっているわけではないようなので、それぞれが所縁のある場所で演奏しているのかもしれない。

 

 

その間に、ラッパを持たない団員は続々と市民センターに吸い込まれて行く。

 

 

 

パレードが終盤に差し掛かっているため、進行を監督するベテラン団員の目にも鋭さが増す。

 

 

 

 

最後のラッパ隊の演奏を見届け、ベテラン隊員の号令で全ての団員が市民センターに入って行く。

 

 

 

パレードはこれで終わりかと思いきや、そうではなく、この後に消防車の一団が控えている。

 

パレードは小学校を出発し、岩手銀行の支店前を通過して市街地へ入る。このあたりは、日枝神社で一宿をお借りするときには何時も通っている道なので、大変懐かしい。

 

 

 

 

旗手、ラッパ隊に先導され、続いて消防団員たちが勇ましく歩いて来る。ラッパを吹かない一般の(?)団員たちは、ひと塊になって黙々と歩いて来るので、何だか凄い迫力である。

 

 

 

 

団員たちは地区ごとに一団になり、切れ目なく長蛇の列になって行進している。この日は市街地の信号も全て停止し、消防団のための花道が出来上がっているのだ。

 

 

 

 

行列は大徳屋麹店たくみの四つ角を曲がり、駅前の目抜き通りに差し掛かった。とぴあや駅では団員たちの到着を今や遅しと待ち受けている人たちがいるだろうから、此処がパレードの最初の山場である。

 

 

 

新穀町にラッパの音が響き渡り、真冬の澄んだ空気を切り裂いて熱気が押し寄せて来る。太鼓やシンバルの響きも加わり、遠野全体に一気に春が来たような盛り上がりである。

 

 

 

 

沿道のベテラン隊員が、沿道の観衆に目配せする。何十人、何百人という団員たちを率いて来た彼にとっても、此処が大きな晴れ舞台だろう。

 

 

 

 

偉大なベテラン団員たちの背中を見て来た大勢の若い団員たちにも、今や後光が差している。この姿を見て将来は自分もこの中に加わりたいと思う子供たちが出て来れば、遠野の未来は明るいだろう。

 

市長の号令が下ると、校庭に集結していた消防団員たちが続々とパレードに出発して行った。先陣を切るベテランの団員たちは、それぞれ立派な団旗を掲げて行進している。

 

 

 

 

年に一度のパレードだからか、ベテラン団員といえど慣れているわけではなく、段取りに梃子摺っている様子が見られる。団員たちが校庭から出た後には消防車も控えているため、全員が出発するまでには相当時間が掛かりそうだ。

 

 

 

俺は取り敢えず先頭集団に付いて行くことにした。

 

 

小学校から市街地に出る道はあまり広くないため、大勢の消防団員が大挙して詰め掛けるとあっという間にぎゅうぎゅう詰めになる。しかし其処はチームワークが命の消防団員たち、渋滞することなくスムースに街へと繰り出して行く。

 

 

 

 

行進にはブラスバンドやラッパ隊も加わっており、勇壮な音色を響かせている。

なり手がいない場合を除いて殆どの消防団がラッパ隊を設置しており、中にはラッパを吹くことに憧れて消防団に入る人も多いという。

 

 

暫く学校の前の道でパレードが出発して行くのを見守っていたが、ラッパ隊に付いて行くのも面白そうなので、既に先へ進んでいるラッパ隊を追い掛けることにした。

 

 

 

消防団が吹くラッパは、トランペットなどと違い単なる金属の管をラッパ状にしただけという極めてシンプルな構造で、奏者の息遣いによってのみ音階を奏でることが出来る。強い息を吹き込む程高い音を出すことが出来、肺活量に優れた奏者程出せる音のレパートリーが増える。

何故ラッパがメインなのかというと、元々騒がしい状況の中でも聞き取り易いラッパの音は古来行軍の信号として用いられ、時代が下っても火災現場など緊迫した現場での号令伝達手段として用いられたことが、ラッパ隊という形で残っているのだ。

 

 

 

俺もジャンルは違えど音楽をやっていたので、シンプルな楽器で美しい音色を奏でることの難しさはよくわかる。防災の文化の中で育まれて来た音楽を聴ける舞台であると考えるのも良い。

 

朝、俺は特に何ごともなかったかのように目を覚ました。リビングには既に暖かい朝ごはんが用意されていて、御主人や女将さんと話をしながらゆっくりといただくことができた。

 

 

さらに、年明けだからと御年玉(現物)までいただいた。みかんは喉が渇いたときなどにとても有り難く、旅の途中のおやつにしよう。

 

 

看板猫のテテは今日もストーブの前から動かない。テテなりに、ときどき来る怪しい旅人を同じ場所で見守ってくれているつもりなのだろうか。

 

 

食事を終えてひと息吐いたら、御主人にお願いして小学校まで送っていただく。毎年1月の第二日曜日、此処で消防出初式が行われるのだ。

 

 

出初式はだいたい何処の地域でも行われていて、その起源は古く江戸時代にまで遡る。1659年2月25日に上野東照宮で行われたのが日本で最初の出初式だとされるが、これが旧暦の1月4日に当たることから、長年1月4日に行われるのが通例だった。その後、1月4日は新日本プロレスが東京ドーム大会を開催する日になったので、出初式は日を固定する地域では1月6日に行われるのが恒例になった。

 

 

遠野の出初式は市民にとっても楽しみな行事のひとつで、毎年多くの見物客を集める。テントには既に偉い人たちが陣取り、式の開始を待っている。

 

 

校庭には、遠野のあらゆる地域から消防車と消防団員が集結している。なんとその数、1,000人弱もいるそうである。遠野市の人口が3万人弱だから、その3%以上が消防団に所属している計算になる。

 

 

 

 

 

四方を見渡し、その視界の全てを消防団が埋め尽くしている光景は圧巻である。

出初式で何をやるかは地域によって様々だが、遠野市ではパレードによる市民への御披露目と、長年の功労者への表彰の二部構成で行われる。今はどうだかわからないが、サーカスのような派手な催しものがある地域もあったといい、「出初式」という言葉が初春の季語になる程、日本には定着している行事であると言える。

 

 

 

式の開始時間になり、統監と書かれた旗を従え、遠野市長が入場して来た。消防団は市が統括する組織なので、そのボスは市長なのだ。

 

 

市長の指示を、ベテランの団員が聞き入っている。開会の段取りが済むと、いよいよ消防団員たちが一斉に小学校を出発し、街中を練り歩くパレードが行われるのだ。

 

俺が明かりに誘われてふらふらと入って行ったのは、駅の隣にあるDeんである。何だか何時も同じ明かりに誘われているような気がする。

 

 

今日も独りでカウンターへ。駆け付けにザクロサワーと自家製の漬物などでひと息吐く。

 

 

メニューを見ていると、2016年開催のいわて国体とコラボした料理コンテストで入賞したというメニューを発見。是非食べてみたいとお願いしたところ、下拵えに時間が掛かるので一時間くらい待ってくれと言われた。どうやら予約しておいた方が良かったようだ。しかし作っていただけるということなので、一時間待つことにした。

その間、賄いで出されたというペペロンチーノやラビオリをいただいた。とても美味い。

 

 

 

60分一本勝負で賄いを平らげ、2杯目の酒を頼む頃合いになって、国体メニューが完成し運ばれて来た。

 

 

これがその逸品、岩手スタミナ飯だ。にんにくベースで味付けされたごはんに鶏の一枚肉、温泉たまご、そして大量の野菜が乗った凄まじいボリュームのメニューだ。元々スポーツ選手向けの食事をコンセプトに開発されたので、栄養バランスも考慮されている。鶏の漬け込みに40分くらい掛かるらしく、準備が大変なのが弱点とのことだが、手間を掛けて作った料理は美味いと相場が決まっている。

 

 

一気に酒が進み、3杯目を発注。また何時もはほぼ必ず最初に発注する鶏の唐揚げも、終盤のタイミングだが発注。これを食べると遠野の夜を迎えた感覚が出て来る。

 

 

 

サービスにリンゴをいただき、口をさっぱりさせたところで今日の晩ごはんは打ち止め。何時にも増してたくさん食べた気がするが、女将の情熱が注がれた国体メニューをいただいたので、俺も明日からホームラン王を目指して特訓することが出来るだろう。

 

 

外に出ると、丁度他で飲み終えて来たという地元の友人・C氏(仮名)がふらふらと歩いていた。互いにかなり酔っていたが、折角此処で会ったのだからと、駅前のさがみで締めのラーメンを食べて帰ることにした。

 

 

C氏は辛味噌ラーメン、俺はつけ麺を発注した。しこたま酔っぱらっていたとはいえ、今思うとよくこんなに食べられたものだ。このあたりから、俺の腹回りは次第に成長を始めた気がする。

 

 

 

その後、俺は遠野の定宿にしている光興寺のくら乃屋さんに向かうべく、タクシーを呼び止めた。本当は散歩がてら歩いて行こうと思っていたのだが、C氏が途中まで同じルートなので一緒にタクシーに乗ることにしたのだ。

C氏は無事に自宅に帰って行き、俺は宿に辿り着いた。そしてこれを書いていて、このときのタクシー代をC氏から貰っていないことを5年半越しに思い出した(笑)

 

 

くら乃屋さんは光興寺の高台にあり、坂の上から振り返ると遠野市街地の夜景が拝めるのだ。手前の暗いところが松崎の田園で、猿ヶ石川を挟んで早瀬の街並みがある。派手な夜景ではないが、俺はこの場所から見る遠野の夜が好きなのだ。

 

 

暫く夜景を眺めていたが、先程から雪が降り始めていて非常に寒いので、早く中に入ろう。

 

 

 

もう日付が変わる前ということもあり、御主人たちは就寝していた。テーブルの上に、泊まる部屋と明日の朝食の時間を知らせるメッセージを残してくれていた。ともすればメールで済む内容を、わざわざ手書きのメッセージとして残してくれているという心遣いが有り難い。

 

 

遠野の他の宿にも何度か泊まったことはあり、それぞれ良い宿であったのだが、くら乃屋さんのご主人と女将さんに会うのは遠野に泊まる楽しみのひとつでもあるのだ。おふたりと看板猫のテテ(2018年に召天)には、明日の朝目覚めたら会えるだろう。