姉帯城跡の入り口に、姉帯城の歴史を解説する看板があったので読んでみた。
姉帯さんの祖先であり、九戸南部氏の一族である姉帯氏は、姉帯の他盛岡の一部にも領地を持っており、九戸氏とは直接の血縁関係もある有力な一族だった。九戸氏が南部氏に反旗を翻し、豊臣秀吉一派が九戸氏討伐を敢行する際にも姉帯氏は九戸氏への仁義を通し、およそ2万8千人の豊臣軍に対して、城主の姉帯大学兼興を筆頭に僅か200人余りで姉帯城に立て籠もって迎え撃ったという。
絶望的な戦力差にも挫けず善戦した姉帯氏だったが、最終的には籠城した大半の人間が討ち死にした。その後姉帯城は一時野田氏の管理下に置かれたものの、1592年に廃城となった。
姉帯氏の無念は如何ばかりか。そのような凄惨な戦いの跡も現在の姉帯城跡には無く、ただ長い歴史の上に今年も訪れる遅い春を待っているだけである。
注意深く探せば、頭上にも足元にも春の走りは訪れている。
人間同士の切った張ったも、自然の前には何の意味も成さない。こんなに小さな花の方が、懸命に生きようとしている。
南側の崖上には木が植わっていて、期待した程の展望は無かったが、まだ葉を付けていない枝の隙間から、現代の姉帯一帯を見下ろすことが出来た。やはりまだ春が居着くには少しだけ早いみたいだ。
姉帯氏を攻め落とした豊臣軍の蒲生氏は、現在は藤島のフジがあるあたりに陣を張り、正面から姉帯城に侵攻したとされている。否が応にも訪れる破滅の姿を、姉帯氏は此処からどのような思いで見下ろしていたのだろうか。