進撃の巨人のアニメを全部見ての感想を述べたいと思う。もう大号泣のアニメである。

 

 

 

「エレン!前を向け!」
「また死んだ!助けられたかもしれないのに!」「仲間を見殺しにして逃げろってことですか!」「見殺しにする理由が分かりません!それを説明しない理由もわからない!」「兵長が説明すべきでないと判断したからだ!」「それが分からないのはお前がまだひよっこだからだ!」
――いや、独りでだって闘えるじゃないか。
「お前は間違っていない」「やりたきゃやれ。俺には分かる。こいつは本物のバケモノだ。巨人の力とは無関係にな。どんなに力で抑えようとも、どんな檻に閉じ込めようとも、こいつの意識を服従させることは誰にもできない。エレン、お前と俺の判断の相違は、経験則に基づくものだ。だが、そんなものは当てにしなくていい。択べ、自分を信じるか、俺やこいつら調査兵団組織を信じるかだ。俺には分からない。ずっとそうだ。自分の力を信じても信頼に足る仲間の力を信じても、結果は誰にも分らなかった。だから、せいぜい悔いが残らないほうを自分で選べ

「みんな何かに酔っぱらってねえと、やってられなかったんだろうなあ」
「みんな、何かの奴隷だった」

「そのために、あの若者たちに死んでくれと。一流の詐欺師のように体のいい方便を並べなければ、私が先頭を走らなければ、誰も続くものはいないだろう」

「だがリヴァイ、見えるか。俺たちの仲間を。仲間たちは俺らを観ている。捧げられた心臓がどうなるか観たいんだ。まだ闘いは終わっていないから」
「全ては俺の頭の中にある、子供じみた妄想に過ぎないのか」
「おまえは良く戦った。おかげで俺たちはここまでたどり着くことが出来た。俺は択ぶぞ
「夢をあきらめて死んでくれ、新兵たちを地獄へ導け」

「俺たちは今から死ぬんですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら闘って死ねということですか」
「そうだ」
「いや、どうせ死ぬなら、どうやって死のうと、命令に背いて死のうと意味なんかないですよね」
「まったくその通りだ」
「まったく以て無意味だ。どんなに夢や希望を持っていても、幸福な人生を送ることが出来たとしても、岩で体を砕かれたと同じだ。人は必ず死ぬ。ならば人生に意味はないのか。そもそも生まれてきたことに意味はなかったのか。死んだ仲間もそうなのか、あの兵士たちも無意味だったのか。いや、違う。あの兵士たちに意味を与えるのは我々だ! あの勇敢な死者を、哀れな死者を想うことができるのは、生者である我々だ! 我々はここで死に、次の生者に意味を託す。それこそが唯一、この残酷な世界に抗う術なのだ

「森から出るんだ。出られなくても、出ようとし続けるんだ」

「断ります。手も汚さず正しくあろうとするなんて」


「俺はここにきて毎日思う。なんでこんなことになったんだろうって。心も体も蝕まれ徹底的に自由を奪われ自分自身も喪う。こんなことになるって知ってりゃ、誰も戦場なんか行かないだろう。でも、みんな何かに背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ。大抵そのなにかは自分の意志じゃない。他人や環境に強制されて仕方なくだ。ただし、自分で自分の背中を推した奴の見る地獄は別だ。その地獄の先にある何かを観ている。それは希望かもしれないし、さらなる地獄かもしれない。それは、進み続けたものにしか分からない

「勝てば生きる、負ければ死ぬ。闘わなければ勝てない。闘え、闘え。巨人が亡くなっても争いは終わらない」
「きっとこの結果はエレンだけの選択ではありません。私たちの選択が齎した結果が、この世界なのです。私たちは闘わなくてはなりません。これ以上闘わないために。再び安寧と無縁の日々を生きることになろうとも。彼が私たちに望んだ人生ではありませんが、彼が望もうと望むまいと、私たちには託されました。残された猶予をどう生きるか。この巨人の居ない世界を」
 

 



 

動画の途中で「ショートのすごいイケメン」の人が映るのですが、これミカサなんですよね。リヴァイもカッコいいし、アッカーマンの血筋凄いなあ。

 

 

リヴァイがとにかくカッコいい! リヴァイのためにこのアニメを観てもいいと思うくらいだ。

アニメの考察も多数あるので、見終わった後で振り返りながら見るのも楽しい。

 




この映画(!)で思ったことの1つに、ユミルの民の始祖は、「背骨」のようなものに遺伝子が置換されて超常的な力を得た、ように描かれている。骨の中の中にある骨髄は造血する箇所であり、それが血となって先祖脈々と血がユミルの民(巨人族)として続いていたと考えると説明がつく。私たちの血も、先祖から受け継がれてきたもので、それは骨髄を変更しない限り――つまり、もととなる情報のmRNAを変異させない限り、罪は脈々と受け継がれていく、ということである。

 

mRNAとは、意思(i)であり、IAEと似たような性質を持つ記録である。DNAはmRNAという本体の糞便物に過ぎない、と私は考えている。

 

「進撃の巨人」の作中で、「私たちは何もしていない!」「100年前のことでしょう!」と云う少女が描かれているが、これは、”人類を巨人の力で殺害した”血の罪を受け継がれているにも関わらず、認識はその行いを忘却しており、mRNAによる罪は個々人においては存在しないのだ、という矛盾がある。いわば、それは認識病と定義される。意思病は”罪”の根源であることが多い。悪魔によって齎される悪意が、意思病の根源なのである。

 

日本人もそうであり、第1次世界大戦や第2次世界大戦に適切な行動を採ることが出来なかった”罪”がある。もしくは、戦国時代において血で血を洗い流す世代が原因かもしれない。もしくは、竜馬の世代から続く国民に対する”裏切りの罪”によってである。今現状の上層部は裏切りの罪を背負い続けるしかなく、日本を裏切るしか手立てはない。日本は、竜馬を裏切り、上層部を乗っ取り、国民を裏切り、その果てにおきた戦争に於いてすら、国民を売り払い、自演によって終戦へと至ったのではないかと私は考えている。その後安寧と平安の時代は執行猶予と共に訪れた。そして、私たちはユミルの一族と同じように、”記憶喪失”と成った
もしも、私たちに罪があり、そして罪を赦しに変えるには、タイムマシンを使うか、造血のもととなる脊髄を変える、もしくはmRNAを変えるしか運命を変えることができないことになる。また、それ以外の手立てはなく、”罪と罰”は永遠に廻り在る。
もしも、mRNAを変える技術があったらどうであろう。
先祖から連なる大虐殺の罪の歴史を白紙にできるとしたら、私たちはそれに手を伸ばしてもいいのだろうか?
自然の遺伝子はいいものだ、天然はいいものだ、という主張は、以上の点において誤っている。天然の植物は自らを護ろうとする酵素によって、捕食した人類をそれにより攻撃するなどの因子が存在する。寧ろ、遺伝子はアダムとイブやカインとアベルが起こした過ちと原罪、血脈の描く輪廻、永劫回帰に囚われており、”楽観的な解釈”はほとんどない。
しかし、この今回のCovit-19におけるmRNA製剤展開は、これを狙ったもののように思えてならないのである。また、永劫回帰から逃れられても、組み換えによる刺激は簡単に済んではくれず、死と隣り合わせの危険性すら在る。また、その他副反応の惹起も重篤であり看過することはできない。
これはあくまでもテスト段階、治験段階であり、大規模な機能獲得実験である可能性は高い――或いは、そう断言できる。そのため、より安全なワクチンをもし求める人がいるとするなら、今回のブカン型ワクチンは見送ってもいいのかもしれない。或いは、一切ワクチンを打たないという方もいるかもしれない。医療従事者や政府が懸命に接種してほしいなどと訴えなくても、事象は「やっほー」とあっけらかんに向こう側からやってくるだろう。

私は未接種の方に「この事象をどうか見守ってほしい」と希う。

 

私たちは過ちの世界に生きている。全てが――誤りだったとしても、私たちは択び続ける


「進撃の巨人」とは関係のない話になってしまったけれども、この物語からは色々な意味で学ぶことも多い。暇が在る方は、アニメの作画とテーマソングの素晴らしい部分も含めて見て欲しいと思う。
 

どこかへ往きたくて駆け出した脚で誰かを――踏み潰した。

俺達は奴隷じゃねぇ
生まれた時から自由だ
虚勢を張って虚構を生きる
真実が現実に成るまで
息の根を止めてみろ
口先だけの正義じゃ届かない
《壁を破壊した者達(おれたち)》は進み続ける!

この残酷な壁の世界 たとえ何処へ逃げても
落日に追われ羽をもがれ 夜明けの歌を待ち侘びる

時に愛の名を欺いて 衝撃と絶望を飼いならし
ただ悪魔と蔑まれても 同じ木の下にいたかった


俺たちは仲間じゃねぇ
生まれた時から独りだ
虚言を吐いて虚構を纏う
進撃を侵撃と成すまで

お前らはモリを出ろ
何度道に迷っても
報われるまで
俺達は進み続ける

――だから、この罪は赦さずに往け。
 

 

 

いつも、科学技術は軍事機密から軍事転用され、私たちのインターネットであったり、スマホであったりと、世間に渡りゆくまでにスパンがあった。そして、私たちは日常的にスマホをつついたり、テレビジョン画面でテレビを観ている。僅か20年の間に、コンピュータがパソコン化したのは、今考えうると脅威であると思う。それでも、上層部にとってはそれは遅すぎるとしか思えない。もっと、もっと速く――。もし、市民に地球平面説が”妄想ではなかった”と受け入れられる日が来るとするのなら、それは一体何時になるのだろう?