武田勝頼公霊社と武田14将霊碑へ ⑦ | KEN ituki

武田勝頼公霊社と武田14将霊碑へ ⑦

 

案内板があったので

新府城址の敷地にある

 

武田勝頼公霊社と

武田14将霊碑に向かってみます。

 

 

 

 

 

この山頂の広場から

藤武神社の隣が

 

その場所で

特別に歩くこともなく

簡単に行けるのでした。

 

 

 

 

 

この場所には

新府城本丸跡と

 

書かれた

杭塔が立っていて

 

城主 武田(諏訪)四郎 勝頼と

書かれています。

 

何故 (諏訪)なのかといえば

当初は諏訪氏を継いだのですが

 

武田信玄の嫡男である 武田義信

が、父信玄に対しての

 

謀反の疑いにより、嫡男義信は

廃嫡により、甲府東光寺に幽閉

 

次兄の龍宝は生まれつき

盲目のため出家

 

三兄の信之は若くして

亡くなっていることから

 

諏訪四郎勝頼が、武田信玄

亡き後の後継者として

 

甲斐武田氏を率いることと

なり、諏訪姓を改め武田姓を

 

名乗ることとなった流れで

ですが、もちろん勝頼の父は

 

信玄(晴信)であり

正統な甲斐武田氏の

 

後継者であることは間違いがなく

そんな理由で諏訪姓が

 

勝頼には付きまとうのですが

 

 

 

 

 

 

信玄の遺言では、勝頼は

勝頼の嫡男である、武田 信勝の母は

 

織田信長の血縁上の

姪である龍勝院が正室であり

 

織田家との縁をもつ信勝を

16歳の元服するまでの後見を

する様に、勝頼に遺言します。

 

 

 

当時の織田氏の勢力の拡大と

甲斐武田氏が融和しながら

 

織田氏との交渉役として

信勝を次代の当主にして

 

行こうという思いが

あったのかもしれません。

 

 

しかし、甲斐武田氏は

武田信玄の当初の思いとは

 

現実はまったく別の流れとなり

織田信長 公 の率いる 織田軍と

 

甲斐の武田勝頼 公 の率いる武田軍

と、織田徳川連合軍の長篠の

戦いとなり

 

勝頼 率いる武田軍は、織田徳川連合軍に

この長篠の戦い(現在の愛知県)で

 

敗北し、甲斐武田氏は、古参である

有力家臣を多数失くしてしまう

結果となります。

 

この長篠の戦いの結果が

勝頼公の采配に対しての家臣団の

 

不服や、以後に起こる第二次

高天神城の戦により

 

信長の調略に見えるような

同盟を望むようなそぶりなどにより

 

武田勝頼公は高天神城に

起こっていることを知らぬまま

 

 

高天神城に援軍を送ることができず

高天神上にいた、武田氏家臣団は

 

降伏を認められず、孤立無援のまま

討ち死ぬこととなり

 

援軍を送らず、家臣団を

討ち死にさせた武田勝頼公という

 

噂と、時事情報操作により

名声を傷つけさせ、以後に残ったの

 

武田氏家臣団の結束へのヒビが

絶対的修復不可能な破損となり

 

甲斐武田氏内部の決定的な分裂を

招いたのではないでしょうか。

 

それを見抜けなかった生き残った

甲斐武田氏家臣団や穴山信君公にも

 

当然至らぬ、たりない点があったと

思われます。

 

事実は、情報によりゆがめられ

それを正しく伝えられる

 

正しく知的で有能な、甲斐武田氏

全体をまとめられる、陰謀策謀を

 

すぐ見抜く軍師がいれば

このような事態になることはなく

 

甲斐武田氏の滅亡も、なかった

かもしれない、ことですが

 

それらの有能な軍師や茶人

仏法界のきれものが、武田勝頼公 以下の

 

武田軍の配下の武将に

作用できず、いなかったことが

 

甲斐武田氏の悲劇だったの

かもしれません。

 

有能優秀で、知性智才にあふれる

当時の仏法上の行いに反すことの

 

あり得ない、優秀な正義のある

人物を登用して、話しを素直に聴き

 

他国の調略や陰謀などの動向に

一つ一つ、検証を加えながら

 

推理推察と、家臣団全体が仮想的に

未来を予測しながら、落ち着いて

 

物事を考えられれば

このような最後は辿らなかった

ようにも思えます。

 

他者に対して、中間上部が話を

正常に聴き入れて、正しい対象と

 

施策見当がができる国力こそが

国の未来を、造るって行くことが

出来るのでしょう。

 

進言や助言には、それらにこそ

策謀や陰謀などがもあり

 

それらを、見抜く力も当然

必要なことでありますが

 

このあたりも、この時代から

今にも続いている、人間の

進化の課題なのでしょう。

 

甲斐武田氏としては、このあたりが

滅亡につながった、残念で

 

悲劇な点で

あったようにも思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

甲斐武田氏滅亡時の

ほど近くの頃は

 

甲斐武田家内部は

おそらくそんな状態で

 

甲斐武田氏正当な当主は

武田勝頼 公 なのか

 

穴山信君 公 なのか

武田勝頼 公 の嫡男である

 

武田 信勝 公 であるのか

甲斐武田氏 一族国内の中でも

 

他国大名の中でも

現実的には、ハッキリとせずに

 

朝廷の官位と承認だけが

正統な甲斐武田家当主の

 

武田勝頼 公を、当主として

認知し認めているだけで

 

甲斐武田氏内部では

城主後継者の資質を持つ者の中で

 

時が来た時には、朝廷に

申し出て、正統な後継者を

 

決めるべきであると

考えた者もいたはずですが

 

その、全て叶わぬ思いとなり

春先に降る雪のように

 

甲斐武田氏は、戦国大名の

地位から消えて行くことと

なりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内板の塔がありましたが

 

 

築城起工

天正 9年 2月 15日

 

入城

天正 9年 12月 24日

 

落城

天正10年  3月  3日

 

勝頼公在城

68日間

 

の文字が刻まれていました。

 

3月3日は桃の節句

 

12月24日はクリスマスイブ

 

まあ、当時の旧暦と

現在使われてる新暦では

 

日は違いますが、当時の占術などで

これらの出来事を起こす日付けも

 

もしかすると綿密に計算されていた

ことなのかもしれません。

 

 

私の子供の頃は

今日は仏滅だから、先負けだから

 

とか、今でも一般的には

仏滅や友引などは

 

あまり葬儀や通夜はしない

傾向にあるはずですので

 

日本人は昔から

日付けに拘る傾向が

あるかと思います。

 

 

 

 

一方、穴山信君 公 の正室の見性院は

武田信玄 公 の 次女でありますが

 

甲斐武田氏滅亡後は、徳川家康に

保護される立場となり、江戸城北の丸に

 

邸を与えられ、後に妹の信松尼と

2代将軍 徳川秀忠 公 と 侍女、お静との

 

間に生まれた子、幸松丸を、妹の信松尼と

共に武蔵八王子で養育にあたったそうです。

 

 

幸松丸は、後の 保科正之であり

徳川家康の戦の後の決断は

 

よくこのような、己の

つみほろぼし的な考え方や

 

行動が多くみられるのも

特徴的であるとも思いますが

 

城主であるものは、天守郭という

神聖である天とつながる

 

建物を守り、天と一番近い存在で

ある天下を守り指導する一族を

 

根絶やしにすると

それ相応の天変や天罰

 

政治や社会の暴走などを引き起こす

ことを、理解していたようで

 

当時の国の運営は、仏法と

自然崇拝である神道の考え方が

 

根深く根底にあり、中世の藤原氏の

和歌が政治を動かすという面は

 

これと似ていて、戦国時代であれば

辞世の句などは、その伝統的な和歌と似た

 

側面もあり、戦国時代と時代は

進んでも、その中世の和歌の伝統は

 

そのように形を変えて継承して

来たように思えます。

 

現代の皇族の方々でも、この天地を

平穏にする祈りや祝詞の儀式をしますが

 

古来日本神道から、それらも

脈々と続いている伝統なのでしょう。

 

見性院の墓所は、現在の 埼玉県 東浦和市にある

清泰寺 と 同県である 新座市野火止にある 平林寺に

 

墓塔や墓所があり、新座市野火止の

平林寺にはこのブログでも過去に

 

訪れているので、ご興味のある方は

こちらをご覧ください。↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、新府城址の山頂です。

 

 

 

 

 

 

 

空はあいかわらず

曇り空です。

 

 

 

 

 

 

 

武田勝頼公は、この空を

見あげて何を思ったの

でしょうか。

 

 

 

 

 

 

人生において

 

楽しこと

 

辛いこと

 

たくさんの

経験をされたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

奥に見える柱は

現代の甲斐の国の

 

地元の人々が作った

供養塔だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

甲斐武田家と家臣団に

現代でも、とても深い

愛があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

一人ひとり

名前を刻んで

 

 

 

 

 

 

 

 

静かなこの山の

山頂の見晴らしの

良い場所に

 

 

 

 

 

 

 

この供養塔は

立っていて

 

 

 

 

 

 

 

現代でも、当時の

この地の主に

感謝を忘れずに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代でも、大切に愛され

供養されています。

 

 

 

 

 

 

そんな、TVドラマや

アニメの脚本では見れない

 

甲斐武田氏の姿が

ここへ来て見れた

気がしました。

 

 

 

 

 

 

見たことや

 

 

 

 

 

 

 

 

聴いたことが

 

 

 

 

 

 

 

 

ある名前がたくさん

あります。

 

 

 

 

 深く手を合わせて 

 先に進むことにします。

 

 つづきます。 

 

 

2024年 武田信玄 公に関する

私の最新記事はこちらになります。↓

 

ameblo.jp/syuuri/entry-12834923477.html

 

山梨県 天目山 武田勝頼 公 北條夫人 辞世の句。 | KEN ituki (ameblo.jp)

 

 

ご興味がありましたら

よろしかったら読んでみて下さいね。