ナガサキ・ヒロシマで、罪なき数十万の民間人を殺傷した、大量殺戮兵器・原爆を投下させたアメリカに遠慮し?“核兵器廃絶” に 何故かか?後ろ向きな、唯一の戦争被爆国・日本。

条約には、核兵器国が1か国も参加していないので、核兵器国を核兵器禁止条約にどれだけ近づけられるかが、唯一の戦争被爆国である日本の大きな使命」??????と、(自前の原爆が欲かった?故・安倍総理の遺志を引き継いだ?)岸田総理は非理屈を捏ねるが・・
安倍総理の危ない憲法解釈 「憲法上は原子爆弾だって問題ではない」??


長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?


長崎原爆から77年「核廃絶こそ人類の未来を守る道」(2022年8月9日)

 NHKニュースWEB 2022年8月9日 18時28分
長崎原爆の日 “核兵器廃絶が未来を守る唯一の道” 長崎市長
【長崎に原爆が投下されて、9日で77年となり、長崎市の田上市長は、平和祈念式典で「核兵器をなくすことが人類の未来を守るための唯一の現実的な道だと今こそ認識しなければならない」と述べ、核兵器廃絶を訴えました。被爆地 長崎では犠牲者への祈りが続いています。

長崎市の田上市長は、平和宣言で「ロシアのウクライナ侵攻は、核兵器の使用が『杞憂』ではなく『今ここにある危機』であることを世界に示しました。核兵器によって国を守ろうという考え方のもとで、核兵器に依存する国が増え、世界はますます危険になっています。核兵器をなくすことが地球と人類の未来を守るための唯一の現実的な道だということを、今こそ私たちは認識しなければなりません。『長崎を最後の被爆地に』の思いのもと、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言する」と訴えました。

そのうえで、田上市長は、日本政府に対して、核への依存を強めるのではなく、核に頼らない平和の構築に向けて議論を先導するとともに、核兵器禁止条約に署名・批准することを重ねて求めました。

被爆者団体 首相に核兵器禁止条約への署名・批准など要望

長崎の被爆者団体の代表は、平和祈念式典のあと岸田総理大臣と面会し、核兵器禁止条約への署名・批准や、国が被爆者と認定する地域の外にいた「被爆体験者」の救済などを求める要望書を手渡しました。

これに対し岸田総理大臣はまず、核兵器禁止条約への署名・批准について「条約には、核兵器国が1か国も参加していないので、核兵器国を核兵器禁止条約にどれだけ近づけられるかが、唯一の戦争被爆国である日本の大きな使命であり、唯一の同盟国であるアメリカとの信頼関係を基礎としながら現実を変えていきたい」と述べるにとどまりました。

また「被爆体験者」の救済については「被爆体験者は長年、病気に対する不安を抱えている。被爆体験者の高齢化が進む中、現在の事業にがんの一部を追加することを検討したい。来年4月より医療費の支給を開始できるよう、どのがんを対象にできるか、速やかに厚生労働省に検討させたい」と述べ、一部のがんを被爆体験者事業の対象に含めるよう検討する方針を明らかにしました。

一方で、被爆者と認定するよう求める要望に対しては、明言をしませんでした。】一部抜粋


 
 ハフポスト日本版 2020年08月09日 6時0分
長崎に原爆が投下された1945年8月9日は、こんな日だった。写真や記録を振り返る【終戦から75年】
【8月9日、長崎に原爆が投下されてから75年を迎えた。人類史上2発目の原子爆弾が投下され、7万人以上が犠牲になった1945年8月9日は、どんな日だったのか。

世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下されてから3日後の8月9日。

午前2時47分、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島からプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B29「ボックスカー(Bockscar)」が離陸した。

その前日の8日には、ソ連が日本に対して宣戦を布告し、翌9日未明にソ連軍が満州に一斉に侵攻していた。

米軍の記録によると、ボックスカー号は8時15分に屋久島に到着。

午前9時44分には投下の第1目標であった福岡県の小倉市(現北九州市)に到達した。

しかし、小倉付近はもやと煙で覆われており、視界不良のため投下を断念したという。前日の八幡大空襲による火炎の煙が視界不良の一因となったとも言われている。

原爆の投下は、レーダーではなく目視で行うことを厳命されていた。

ボックスカー号は、第2目標だった長崎に移動。10時50分に長崎に到着した。

機長チャールズ・スィニー少佐の手記によると、長崎も同じく雲に覆われていたという。「レーダーによる爆弾投下もやむなし」と決断していたというが、燃料切れが近づく中、爆撃手が雲の切れ間から市街をわずかに確認した。

午前11時2分、高度9600メートルの上空から、原子爆弾(プルトニウム爆弾)が投下された。

爆弾は松山町171番地の上空約500メートルでさく裂。爆発によって発生したすさまじい爆風と熱線、放射線は街に甚大な被害をもたらし、多くの尊い命が奪われた。

爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力や熱気によって、住民のほとんどが即死したという。

原爆の投下によって、当時の人口24万人のうち、約7万人がその年の年末までに死亡した。1950年に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告によると、死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計されている。】一部抜粋