77年前、大日本帝国が沖縄を「捨て石」にし、多くの県民の命を奪った原罪。
本土政府は反省するどころか、在日米軍とともに、再び沖縄を戦禍に巻き込もうとしている、

まことに『安全の脅威』ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない
台湾有事は日本有事」と、大日本帝国・商工大臣の孫・安倍晋三・元総理は勇ましいが・・
歴史は二度繰り返す 「一度目は悲劇として、二度目は茶番として・・」 演者を代えて


 琉球新報<社説> 2022年6月23日 05:00
慰霊の日 「前夜」を拒絶する日に
【沖縄戦から77年。ロシアによるウクライナ侵攻後、初めて迎える慰霊の日である。 政府は米国との軍事一体化を強化し、自衛隊を南西諸島に重点配備して沖縄の軍事拠点化が進む。政治家は台湾有事を持ち出し緊張が高まる。

 現状は外交努力が失われ力の論理が席巻したかつての日本と重なる。沖縄戦の前年に日本軍(第32軍)が配備され、島が急速に要塞(ようさい)化された。その結果「ありったけの地獄を一つにまとめた」(米軍戦史)戦闘によって4人に1人の県民が犠牲になった。

 沖縄戦の教訓は「命どぅ宝」という非戦の思想であり、人間の安全保障の実現である。慰霊の日のきょう、かつての戦争「前夜」の状況を繰り返さないことを誓いたい。

 安倍晋三元首相は昨年、「台湾有事は日本有事」と述べた。ロシアのウクライナ侵攻後は核共有議論を提起した。岸田文雄首相も台湾を念頭に「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と発言し、防衛費大幅増を目指す。

 台湾や尖閣諸島で不測の事態が発生した場合、沖縄が戦場になる可能性が高まる。しかし、島しょ県である沖縄では、有事の際の島外避難に大量の航空機や船舶が必要で、全住民の避難は不可能だ。

 なぜ日本は歴史から学ばないのか。私たちは、再び国家にとって「小の虫」とされることを拒否する。】一部抜粋


 沖縄タイムス・社説 2022年6月23日 07:52
[慰霊の日に]「ノーモア戦争」の声を
【今年の慰霊の日は、これまでの慰霊の日とはだいぶ社会の空気が異なる。

 私たちはいま、過去・現在・未来にまたがる三つの戦争に直面している。
77年前の沖縄戦と、現在進行中のウクライナ侵攻と、米中対立を背景にした台湾有事という名の未来の戦争の三つである。
 このような事態はこれまでなかった。現在を「戦前」と呼ぶ人もいる。
人は「平和」という抽象的な言葉よりも「安全」という言葉に敏感だ。

 「まことに『安全の脅威』ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない」と著名な精神医学者の中井久夫さんは指摘する(「戦争と平和 ある観察」)。

 ロシアもそうだった。「安全の脅威」を前面に押し立てて戦争準備を始め、侵攻を開始したのである。
 南西諸島の軍事要塞(ようさい)化や軍事費の増大、敵基地攻撃能力の保有などが、矢継ぎ早に打ち出されているのも「安全の脅威」を根拠にしている。

 空気によって流され、気が付いたら後戻りのできない地点にいた、というのが一番怖い。
 戦争が引き起こされるときは、言論が統制され、戦争を正当化するプロパガンダが繰り返されることが多い。

 二度と同じ過ちを繰り返してはならない。
緊張をつくり出すのではなく、緊張を緩和する取り組みが必要だ】一部抜粋


 北海道新聞<社説> 06/23 05:00
沖縄慰霊の日 痛みの現実直視したい
【77年前の戦争末期、沖縄は本土防衛の「捨て石」となり、多くの住民が犠牲になった。県民の4人に1人が命を落とし、兵士も含めた死者は20万人を超える。

 今年は沖縄が日本に復帰してから50年の年である。しかし現在も、米軍専用施設の7割は沖縄に集中している。
 戦時中だけでなく、戦後も苦難を強いているのが現実だ。
政府は沖縄の痛みに、いっそう真剣に向き合う必要がある。

 望まぬ基地負担を象徴するのが米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題だ。沖縄の人々は県民投票や度重なる選挙で移設反対を訴えてきたが、政府は聞く耳を持ってこなかった。

 有事の際には住民が戦闘に巻き込まれる可能性が高いことに、沖縄の人々は77年前を思い起こし、不安を感じているのではないか。
 多大な犠牲を出した沖縄の人々に寄り添うなら、政府は衝突の回避に向けて外交努力を尽くすことこそ重要である。

  基地が原因とみられる河川などの水質汚染も相次いでいるが、米軍の特権的地位を定めた日米地位協定に阻まれ、日本側による基地内の調査さえ実現していない。
 沖縄県は日米地位協定の改定を訴えている。日米両政府は地位協定見直しの議論を急ぐべきだ。】一部抜粋


 しきたり shikitari.net 
慰霊の日はなぜ6月23日?沖縄戦の歴史や式典出席時の注意点などを紹介
【沖縄では、休日にもなっている「慰霊の日」。この日沖縄で行われる式典には、首相などが参列し、毎年ニュースにもなっています。なぜ沖縄は、慰霊の日をつくったのでしょう。沖縄の悲惨な歴史から日にちが決められた理由、式典に参加する際の注意事項や関連行事までを簡単にご紹介します。

index
1. 沖縄の「慰霊の日」とは
1.1. 沖縄戦の戦没者を弔う日
1.2. なぜ6月23日なのか
2. 沖縄戦とは
2.1. 県民も動員された戦争
2.2. 地獄絵図のようだった
3. 戦没者追悼式典
3.1. 正午の黙とう
3.2. 誰でも参加できる
4. 沖縄全戦没者追悼式に参列するには
4.1. 会場までのアクセス
4.2. 服装は自由
5. 慰霊の日の関連行事
5.1. 沖縄全戦没者追悼式前夜祭
5.2. 平和祈願慰霊大行進
5.3. 平和の光の柱
5.4. 沖縄県平和祈念資料館の無料公開
6. まとめ

沖縄戦の戦没者を弔う日

慰霊の日とは文字通り、死者の霊を慰めるための日。いったい誰の霊を慰めるのかというと、太平洋戦争で犠牲となった人々です。

沖縄県は太平洋戦争(1941~1945年)において、国内で唯一、一般市民をも巻き込んだ地上戦(=沖縄戦)が行われた場所でした。沖縄戦の犠牲者は20万人超といわれています。そのうちの半数は兵士ではなく、幼い子どもたちを含む一般市民でした。沖縄戦は沖縄の方にとって、今でも忘れられない辛い記憶となっているのです。

県民も動員された戦争

沖縄戦は、沖縄の村落を舞台に繰り広げられました。一般市民は、ただでさえ巻き込まれるものと想像できますよね。さらに沖縄の人々は軍人でなくても、沖縄守備軍の兵力になっていたのですから驚きです。例えば、沖縄の学徒隊はおよそ2万人にものぼったといいます。

中でも高等女学校の生徒らで構成された「ひめゆり部隊」、14~17歳の男子中学生から構成された「鉄血勤皇隊」などは有名です。前線に送られたり、大人以上に過酷な任務についた若い彼らは、多くの犠牲者を出しました。

地獄絵図のようだった

当然、戦闘には参加しなかった一般市民も、多大な犠牲者を出しています。道や海のあちこちに死体が転がり、まるで地獄のようだったと言われています。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍からの激しい攻撃だけでなく、集団自決を強要されたり、スパイの容疑で殺されたりと、日本軍によって命を奪われた人も多くいました。

日本は徐々に追い詰められ、5月22日に日本軍は首里(軍の司令部が置かれていた)を放棄。司令部は沖縄本島の南端・摩文仁へと移されました。そして6月23日、すでに書いた通り、牛島中将と長参謀長の自決によって沖縄戦は日本の敗北に終わったのです。

まとめ

6月23日は沖縄の慰霊の日です。沖縄県は太平洋戦争において国内で唯一、地上戦が行われた場所。一般市民をも巻き込んだ激しい戦闘が起こり、犠牲者は20万人を超えるといわれています。地獄のような沖縄戦は1945年6月23日、軍司令官の自決によって一応の節目を迎えました。

戦後、沖縄ではこの日を慰霊の日とし、毎年「沖縄全戦没者追悼式」を開催しています。慰霊の日は沖縄県民だけでなく、世界中の人にとって大切な行事といえます。沖縄にゆかりのない方であっても足を運んで、戦没者の慰霊と平和への感謝をしてみてはいかがでしょうか。】