なぜ、私は毎週座禅を組みに行くのか? | 人生を変える「習慣化」ブログ

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習慣化コンサルタント古川が綴る「人生を変える習慣」
人生が変わった!という深い感動を共に味わう
を使命に、日々の気づきを発信しています。

 

習慣化コンサルタントの古川です。

 

 

昨年から日曜日は禅寺に座禅を

組みに行っています。

 

 

18:00−

2時間

 

・お経を読む

・住職の公案(禅問答の説法)を聞く

・1回目の座禅(25分)

・2回目の座禅(25分)

・お経を読む

・茶礼

 

という流れです。

 

 

経営者も多く来ているようですが、

70名近くいる人の素性は正直わかりません。

 

一言も言葉をかわすことがないからです。

 

何せ、座禅に来ているわけですあら。

 

 

さて、なぜ私が日曜日に座禅会にいく習慣を

つけているのか、よく理由を聞かれます。

 

 

一言でいうならば

「深い気づきが得られる」からです

 

 

たとえば、

公案はこのようなものでした。

 

無門関 香 厳 上 樹(きょうげんじょうじゅ)

以下ページより引用

http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.4.htm


香厳和尚は言った。

「それは口で枝にぶら下がっている、樹上の人のようなものだ。

手は枝をつかんでおらず、足も樹に触れていない。

その樹の下に別の人がやって来て、彼に祖師の西来意を問う。

もし答えなければ、問うた者の要求に応じぬことになる。

もし答えるならば、命を失ってしまう。

このような時、彼はどう答えたらよいか...」

 

さっぱり分からないですよね?(笑)

 

 

語れば落ちて死んでしまう。何も語らないと質問に答えられない。

さあ、どうする?

 

というまさに禅問答です。

 

 

 

お説法で興味深いのは、

この解説です。

 

 

禅というものは、経典はなく、

そのもの言葉で説明できないもの。

 

だから、座禅を組んだり、公案を通じて

その本質たるところを修行や問答でつかみ取っていくもの

だといいます。

 

 

禅は、座禅をしているときに存在するものではなく、

掃除をする、ご飯を食べる、畑仕事をする。

 

すべての行為に禅を存在させるには、

禅的な生き方、またすべての行為に禅を存在させるのであって

ある行為をすることで、禅が生まれるわけではない

という解説です。

 

 

つまり、座禅をしていても、他のことを考えていたら

それは禅ではない、歩いていても1つ1つの大地を噛み締め

今に集中して禅的に歩くならば、それは禅。

 

まさに「箸の上げ下げ」を指導されるのは

禅の修行道場のたとえ。

 

そこに禅はあるか?

ということでしょうか。

 

上記の例えで言えば、

(ここからは私の勝手な解釈です)

口で枝にぶら下がっている状態でも

禅を存在させることはできる。

 

必死に枝にぶら下がり、禅的な状態でぶら下がれば

言葉はいらない。それで相手の質問に回答できる。

そもそも禅とは言葉で語らず、見せていれば伝わるものである。

こんな解釈をしてみました。

 

さて、住職のこんな話を聞きながら、

ふと我が身に浸透してくる瞬間があるのです。

 

あー、私は習慣道を歩む、

修行者のようなもので、永遠に終わることはない

道を歩んでいる。

 

すべての行為に習慣的な生き方や気づきが

得られているかと我が身を振り返ると恥ずかしい。

 

あー、まだまだ修行が足りないなー

と存在の小ささ、偉大なる道が見えるとき

なぜか、ふと謙虚になり、身が引き締まる思いがしました。

 

 

こういう深い気づきって、

本を読むだけでは起きないんですよね。

 

 

禅寺で、公案を聞いて、

30分ぐらい聞いて1つ、ようやく深く1滴だけ

智慧が落ちてくる。

 

 

その智慧を求めて、

毎週、座禅を組みます。