人間の感性には「嫌な事」と「良い事」に大別される。例えば、腹が減ればイライラする。これが嫌な事を指し、良くなるように食べ物を作り得る事へ向かい嫌な事から良い事へと動く因果が見られる。自己から見る嫌な事と良い事を指し、外界からどう見られるか、或いは嫌な事や良い事を与えるかについて思慮が深まる。食べ物は、動植物の生命を指し、動植物から見れば人間に命を取られ嫌な事を指す。この動植物という存在からの嫌な事へ思慮が及んで、自己と動植物の「いやな事と良い事」を調和させる発想へ進む。これが「生滅不可分性と生の最良性」ともいう根源的な生命への感じ方と作り方を指し、基礎基盤的な感性に配される。変わらず持ち続けるべき、根源性を指し、これにおいて、持続的な生存と共存へ及ばせる発想が引き出され、自然と人間と道具のより良き相関へ及ばせる世界が描かれる。人間同士の関係でいう「嫌な事」と「良い事」を単純模型化すると例えば以下のような構図が示される。
滅の発生 |
生滅不可分と 最良の生 |
生の増進 |
嫌な事 |
両面の相関 |
良い事 |
盗まれる事。 嘘をつかれる事。 暴行を受ける事。 経済的衰退。 政治の不安。 教育の貧素化。 戦争、テロ 自然災害 |
欲望と力と責任の均衡 自己生産規定の明示と適用 |
食べ物を得る事。 衣服を着る事。 住居に住める事。 経済的繁栄。 政治的安定。 教育の充実。 治安の安定と経済の興隆。 |
負的現象と正的現象に大別され各類型が列挙される。そして、ここから「原因と結果」と感覚や感受性の刺激と反応という実感を精査して、事実関係が掴みだされる。直接的な因果関係として、「食べ物を得て満足した」という生の増進に対して「食べられた」という負の側面が起こり、両面は切り離せない不可分性が映し出される。或いは、経済活動から技術を形成し、顧客を得て所得に回り消費が出来るという良い事の循環系が描き出される面に対して、これが齎せる負の側面はどんなことかへ思慮が及ぶ。「顧客を取られた。所得が減った。消費が下落した」等という面が出現する。生と負という現象の出現に対して、マイナスへの罪悪感が少なからず起こって、マイナスを超えるようなプラスを生む事へエネルギーが注ぎ込まれる。これが畏敬の念という感性に言い換えられ、自己の生命を重んじると共に外界への生命を同じように尊重し生の増進から起こる滅の発生へついて、なるべく良好な正の増進へ及ばせる感性が出現する。多くの人々を幸福にするような真の利益に及ぶ技術の開発や表現の起こし方へと進み、自存と共存の持続的再生産へ及ばせる因果と描かれる。こうした根源的な感性が人間の良性を見る変わりづらい観点と固まり、基礎基盤の良性をもって二次三次の創造へ及ばせる態度に健康な性格が映し出される。「どんな人間になりたいか。自己はどうなりたいか。空間の良き秩序とは何か」等を考える上での根源的な側面が抑えられ、基礎基盤の良性の上に個性を作る感性へ進む。どんな専門技術に従事するか、その良い面と負の面を掴み、なるべく正が上回るように自己と他者の利益が増進するように改善が進められ、万人的な全体概念へ及ばせる軌道が生まれる。このような因果性を強調して表現する以前に、虫食い的な自愛感情の妙に強い性格などへの嫌悪感が現れ、自然な本能として不快を削減させる力や快適を増進する力が出現する自然現象が発生する。万人的な感性として可視化する事から、より良い生を遂げる思慮が進み、正負の二面性への問いが起こり因果性を洗い出し、プラスの上回るより良く考えられた生産に力強い生命が出現する。こんなような生命観を基礎に抑えながら各種個性や工程を導き、万人的な全体概念との整合へ及ぶような創造力の軌道が生まれる。根元と間の工程と全体観の構図が描かれると共に、根源的な生命観への認識が備わり世界が生まれる。理想的な概念と出現すると共に現況の様々な性格と対峙し、妥当な方法をもって利益を遂げる実際的な工程を視野に含んで、適正化する。クズにはクズの反応を見せる事に健全性が起こり、良性には良性の反応をもって好循環が進む。虫けら相手に真面な感性はいらない。虫けらの拡大に及ばぬよう社会のインフラへの役割が明瞭化し、なるべく正を増進できるように、生滅不可分と生の最良へ連ねる基調が進められる。ここに政治の安定と作用が出現し、経済活動の二面的な性格や因果を洗い出しながら有効な対処や予防の創造力が投じられ総じてプラスへ及ばせる態度に、「正しい」という感性が生まれる。直接的に下限現象を起こす様な犯罪者は淡々と理由の如何は問わず、対処して、真面な感性を萎ませない好循環軌道が促進される。警察や司法等の取り締まり機関への期待はこんな点に生まれる。下限的な現象への単純な判断と共に高次の創造性が生まれる。あらゆる創造性は二面性を抱きながら最良性を引き出す態度に健全性が起こり自己の役割が認識される。一生懸命のつもりが、出過ぎた強欲性と映る事にならぬよう根源的な生命観が問われる。政治が出過ぎて、経済を圧迫していないか、教育が妙な力みに陥っていないか、経済が頓珍漢な態度に及んでいないか。虫けらなマスコミという生産に及んでいないか、各種領域の本分が次第に作られ、適度な隣接分野との相関を果たし、或いは上下関係の適正を発想しプラスとマイナス面を思慮に含め実質的効用が測定される。こうした中長期の尺度が浮かべられて、健全な感性が映し出される。分母的な尺度からは明瞭な病気と特定される現象でも、当人は自覚がなく暴走に及んでいるような事には、淡々と確たる基準から取り締まり悪性を広げない事が必須とされる。金や権力に踊らされ破綻的な感性に陥り、人間の根源的な良性を破壊するようでは看過できず虫けらの対処が欠かせない。力が多くなるほどに、正負の体験を経て次第に固まる自己の仕事観や技術観、人間観が形成される。これらを明示し公平な適用が望まれる。これが貧素であるようなものを担ぎ上げる醜態が進むほどに根源感性は劣化し、長期利益を損ねる。欲望と力と責任の均衡する適当な配置を作られる態度に、健康な主体性が生まれる。必要な工程を省略して過分な力を与えられ、力の良好な活用に及ばず、力に踊るような面々へ適当な尺度と適用から矯正を果たし長期の好循環軌道が進む。以上のような根源性と間の工程と全体観の構図には比較的同一性が現れるように思われます。ボンボン文化や物理依存の激しい精神的なひ弱な文化に嵌ることなく、健康な基礎基盤の良性が文化の善し悪しと出現する。社会システムの基軸に入るべき性格や要件と、不適格な面が鮮明化される。