玲瓏透徹

玲瓏透徹

あなたの正統性は、どこから?

はじめに

 大東亜戦争敗戦とともに東大教授を辞職した歴史学者・平泉澄が昭和29年から昭和37年にかけて行った講演を、日本学協会の月刊誌『日本』は平成11年から平成15年にかけて、「歴史の真実」と題して掲載した。その連載回数は45回にわたり、それぞれについて「編集部の責任で」題名(「歴史の真実」)と副題がつけられている。

 本記事では、45回の連載それぞれの副題と、その号数・発刊年月、講演年月を掲げた。もともとは自分用に作ったリストだが、平泉に関心を持つ人々の便宜になればよいと考え、ここに公開する。

 

「歴史の真実」副題一覧

昭和29年10月8日(銀座)
一 (副題なし) 日本 49(3);1999・3 - 
二 乃木将軍と菅沼貞風 日本 49(4);1999・4 - 
三 米欧のアジア侵略と橋本景岳 日本 49(5);1999・5 - 

 

昭和29年11月9日(銀座)
四 日本の皇紀 日本 49(6);1999・6 - 
五 日本民族の起源 日本 49(7);1999・7 - 
六 日本歴史の美しさ 日本 49(8);1999・8 - 

 

昭和29年10月10日(銀座)
七 北畠家の忠誠 日本 49(9);1999・9 - 
八 北畠親房公と神皇正統記 日本 49(10);1999・10 - 
九 日本歴史の光と影 日本 49(11);1999・11 - 

 

昭和30年2月7日(銀座)

十 道義の人大西郷 日本 49(12);1999・12 - 
十一 米国の海外政策と大東亜戦争 日本 50(1);2000・1 - 
十二 露国アジア侵略と日露戦争 日本 50(2);2000・2 - 

 

昭和30年2月7日(銀座)

十三 山田重忠と鎌倉武士 日本 50(3);2000・3 - 
十四 歴史教科書と日本古代史の諸問題 日本 50(4);2000・5 - 

 

昭和30年2月8日(銀座)
十五 日本民族の由来 日本 50(7);2000・7 -  
十六 邪馬台国と七支刀 日本 50(8);2000・8 - 
十七 広開土王碑と古代日本文化の独自性 日本 50(9);2000・9 - 
十八 大智禅師と菊池一族 日本 50(10);2000・10 - 

 

昭和30年5月16日(銀座)
十九 国家の盛衰と日本の武士道 日本 50(11);2000・11 - 

 

昭和30年5月18日(銀座)
二十 日本書紀の所伝の正しさ 日本 50(12);2000・12 - 
二十一 戦国武将にみる決断力 日本 51(1);2001・1 - 

 

昭和32年11月19日(銀座)
二十二 人物考察の眼目 日本 51(2);2001・2 - 
二十三 人物考察の眼目(続) 日本 51(3);2001・3 - 

 

昭和32年10月19日(銀座)

二十四 水戸義公と伯夷伝 日本 51(4);2001・4 - 
二十五 義公の修史と出版書 日本 51(5);2001・5 - 
二十六 義公の修史と出版書(続) 日本 51(6);2001・6 - 

 

昭和32年11月20日(銀座)

二十七 大江匡房とクラウゼヴィッツ 日本 51(7);2001・7 - 
二十八 義公の修史と出版書(続々) 日本 51(8);2001・8 - 

 

昭和32年11月21日(銀座)

二十九 大日本史の三大特筆 日本 51(9);2001・9 - 
三十 大日本史と聖徳太子 日本 51(10);2001・10 - 
三十一 水戸義公畢生の念願 日本 51(11);2001・11 - 

 

昭和36年11月20日(大手前パレスビル)

三十二 宸筆と名門大家の日記(一) 日本 51(12);2001・12 - 
三十三 宸筆と名門大家の日記(二) 日本 52(1);2002・1 - 
三十四 宸筆と名門大家の日記(三) 日本 52(2);2002・2 - 

 

昭和36年11月21日(大手前パレスビル)

三十五 崎門学と宝暦事件 日本 52(3);2002・3 - 
三十六 竹内式部と岩倉具視 日本 52(4);2002・4 - 

 

昭和36年11月22日(大手前パレスビル)

三十七 旧家にみる家風 日本 52(5);2002・5 - 
三十八 フランス革命の真相 日本 52(6);2002・6 - 
三十九 豪快なる外交官 日本 52(7);2002・7 - 

 

昭和37年11月21日、22日(大手前パレスビル)

四十 大東亜戦争開戦の真相と伊東正徳氏の曲筆 日本 52(8);2002・8 - 

 

昭和37年11月19日(大手前パレスビル)
四十一 明恵上人(上) 日本 52(9);2002・9 - 
四十二 明恵上人(中) 日本 52(10);2002・10 - 

 

昭和37年11月20日(大手前パレスビル)
四十三 明恵上人(下) 日本 52(11);2002・11 - 
四十四 忍の城 日本 52(12);2002・12 - 

 

昭和37年11月21日(大手前パレスビル)
四十五 修学院離宮 日本 53(1);2003・1 - 

 

おわりに

 以上の内容は国会図書館デジタルコレクションで公開されている。上のリストも、それを閲覧しながら手で作成したものである(写し間違いなどあれば申し訳ない。尤も、元が間違っていて後の号に訂正が出ている場合もある)。これらの講演は、田中卓『平泉史学と皇国史観』(青々企画、平成12年)所収「平泉澄博士著述・講演目録(稿)」で「第何回銀座講演」として記載されているものの一部と見られる。

 月刊誌『日本』は、これ以外にも、世に出回っていなかったり入手困難だったりする平泉の講演記録や文章などを小出しに掲載している。そのような平泉の言説にアクセスできるのは、平泉の門弟・門流などによる活動による賜物である。願わくは、月刊誌に小出しにするよりも、まとまった書籍として刊行していただければありがたいのだが、諸事情により困難なのであろう。

【目次】

 はじめに

1、導入

2、政治的統一

3、信仰する戦闘者

 おわりに

 

はじめに
 葦津珍彦(1909年~1992年)は、皇室・神道・神社を擁護する論陣を張った神道者である。反対者から論理的に神道を弁護する姿勢を貫き、西洋思想にも通暁した葦津は、立場を異にする論敵からも一目置かれていたことでも名高い。仲間内でしか通用しなさそうな理屈と心情で論を立てがちな戦後右派論客とは別格の思想家として評価されていたと言える。
 本稿では、晩年の葦津による神武天皇建国論を、その著書『昭和史を生きて 神国の民の心』から簡単に紹介したい。周知の如く、神武天皇は九州から東方に遠征を行い(東征)、現在の奈良県で初代天皇として即位し、日本を建国した(「とされる」)人物あり、天照大神の末裔と信じられてきた人物である。

1、導入
 次の文章は、葦津の神武天皇観を端的に表している。

神武天皇即位以前の日本には、主として農耕の民があり、それに海の漁業をする民もあった。しかしそこに社会的な統一の法秩序がなく、したがって暴力の強い者が、放恣に支配する部落集団があるのみだった。その暴圧者を神武をもって制圧し、日本国の統一的治安と平和とをもたらすことを、高天ヶ原の神の命と信じて、国の統一の基礎を創られたのが、神武天皇である。(207頁)

 各地で強者が群雄割拠する日本を統一する基礎を築くという政治的功績を、を「高天ヶ原の神」への信仰に基づいて成し遂げたことに評価の重点が置かれていると言ってもよいだろう。

2、政治的統一
 葦津の言う「「高天ヶ原の神」への信仰」とは何だろうか。葦津によると、神武天皇を長とする九州の農耕民の集団にあった信仰で、その集団の長は「葦原の中津国(日本の国土)の君主として、この国土を農業耕作の豊かな国とするように、高天ヶ原の天照大御神から稲を授けられて来た」とする使命感である(172頁)。この使命感に基づき、日本各地で紛争を繰り返していた村落の長を服属させ、農作に必要な治安と秩序を日本列島に確立することが神武天皇東征の発想であったという。
 神武天皇の東征による日本建国を、葦津は次のように高く評価する。

ともかく神武帝によって、日本人が、部落的小集団の原始的社会状況から、全民族的な国家時代へと偉大な発展をしたということ、民族そして指導者としての神武天皇が、高天ヶ原信仰の社会集団の長であられたということ、これは国史、国体を学ぶ者にとって、きわめて貴重なことと信じます。(176頁)

 ここでは、神武天皇の建国が日本人の文明発展に寄与したことと、それを可能にした「高天ヶ原信仰」とが、並んで重視されている。

3、信仰する戦闘者
 高天ヶ原の神の使命によって建国を志し東征を行った神武天皇は、高天ヶ原の神の祭りを熱心に行いつつ、彼に服属しない者との激しい戦闘を繰り広げた。記紀(古事記・日本書紀)の伝承が伝える神武天皇を、葦津は「明らかに武威烈々たる戦闘者」であり、「ただの戦闘者」ではなくて「われこそ高天ヶ原信仰の正統なる宗家の正系継承者であって天下無敵の王たるべきもの」との強い自信を持つ者である評する。

 さらに葦津は、「神武天皇の戦いぶりには、後世儒学文明的に洗練された武士道などとは異なる原始的猛雄さがある」と注意を促す。討伐すべき敵には「苛烈非情」であり、権謀術数を用いて敵の全滅を目指す神武天皇の戦いぶりは、「古代王朝では当然」とされており、後の日本武尊にも似た影があるという。そのような戦いぶりについて、葦津は「後世の日本武士のように、敵に対しても、後世で思いやりの深い人情というようなものは感ぜられない」と言う(205頁)。一見突き放したかのような見方だが、それが何故かを語る段で葦津の筆は冴える。

私は歴史を逆推して考えている。後世になり、皇室の高天ヶ原の信仰がひろまっていくと、われも敵も同一の宗教のもとに生死する人間としての同質性が感ぜられて、人道的感情が自らにして湧き出でて高まって来る。
しかし、われと敵とが全く異なる神々の系列に属すると信じている者(異端との間)では、人間としての同質性が感じがたいのではないか。(中略)日本人は、同一の高天ヶ原信仰者として、千数百年の間、平和で穏やかな社会生活を続けてきた。事有って戦うことがあっても、われと敵との間に思いやりがあった。(206頁)

 敵にも思いやりを見せる後世の戦いぶり(武士同士の戦いなど)は、神武天皇の建国によって成立した同じ高天ヶ原信仰を有する共同体を前提とする。神武天皇の戦いは、そのような前提が成立する前のものであり、結果的にその前提を成立させることとなった戦いである。それゆえ、神武天皇の敵に容赦しない戦いぶりが、我々からは非情に感ぜられるのは当然であるという、逆説的な論理がここでは展開されているのである。

おわりに
 神武天皇東征の戦闘の状況や天皇の「英風」を語る物語は、神話文学的な表現形式を取って記紀で伝えられるが、葦津は「その大綱を歴史的な事実であろうと信じている者の一人」であると自認している(174頁)。
 神武天皇による高天ヶ原信仰に基づいた建国は、安定した農耕社会のために必要な秩序を築いて日本人の文明発展に寄与するとともに、同じ信仰と同質性を有する政治的共同体を築く事業であると葦津は評価する。この共同体の内部での紛争では、敵はどんな苛烈な手段や詐術を取ってでも殲滅すべき敵とは見なされず、敵にも一定の情けをかけることが美徳とされる。そのような中和された「敵」観は、神武天皇が建国の過程で容赦なく「敵」を打ち倒して、日本国家=同一の高天ヶ原信仰を有する同質的な共同体を形成したことによって可能になったものである。その到達点から神武天皇の戦いを見れば、それは苛烈で「思いやりの深い人情」の見られないものと見えるのである。「神武天皇の東征での戦いぶりは苛烈すぎないか」という疑問に対して、逃げを打ったり、居直ったりすることなく、その苛烈さを認めたうえで理路整然と説明することができるのが、葦津の強みであると言えよう(無論、相手がその論理を受け入れるかは別問題であるとしても)。
 本稿は、一冊の著書の記載のみから葦津の神武天皇論を簡単に紹介しただけで、葦津の論の変遷やその広がりには一切触れられていない。現在の私にはそれを行うだけの見識がないが、試みる価値は十分にあると思われる。

【参考文献】
『昭和史を生きて 神国の民の心 「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ6』 葦津事務所、平成19年
※引用元の所収は以下2点。本稿では、特に断りなく、この2つを反復横飛びするように引用した(論文でやったら指導教員にぶん殴られるような方法である)
「日本国体についての一私見」(170~185頁)昭和60年

「私も神道人の一人である」(186~215頁)昭和60年

  はじめに
 以前、「平泉澄の詠嘆 「何といふ事であらうか」について」という記事で、「『山彦』で「何といふ事であらうか」に近い構文はこの一か所だけであり」と書いた。しかし、それは大いなる疎漏である。改めて『山彦』を通読すると、「何といふ事であらうか」に近い構文は11か所あった。以前の記事を書いた際、平泉『父祖の足跡』に現れた「何といふ~」について書き進めるのに急なあまり、『山彦』における該当文を探すに充分な時間と注意を払わなかった(パラパラとめくっただけで、再通読はしなかった)ための見落としである。本記事では、『山彦』に現れた「何といふ事であらうか」を紹介し、過去の怠慢のツケを払っていきたい。
 なお、『山彦』とは、いわゆる皇国史観の主唱者として有名な歴史学者・平泉澄が、昭和35年から46年にかけて時事通信社の『週刊時事』の「ひとこと」欄に掲載した随筆をまとめた書籍である。

1、自主独立の気象と、卑屈隷属の態度と、ああ何といふ大きな相違であらうか。(25頁)
 ここでの「自主独立の気象」は慶應義塾の塾生・小幡仁三郎の振る舞いを指し、「卑屈隷属の態度」は日本国内の紛糾を海外に持ち出して、その援助で解決しようとする者の態度を指す。
 明治元年、江戸城に官軍が迫った際、福沢諭吉の友人と懇意であった米国公使が、「公使館の雇員であるという証明書を発行すれば官軍の暴行から逃れられるであろうから、遠慮なく申し出られるがよい」と申し出た。この申し出について、諭吉が塾生一同にはかっところ、小幡は日本国内の問題で外国人の庇護を受けて内乱の禍を逃れようとは思わないと言い切った。この態度を平泉は讃えた。

2、さて戦い敗れた後の我が国の姿、少数のすぐれたる人々を除いて、一般には何といふ事であらうか。(42頁)
 戦後日本人の有様(戦争を呪い生命の貴重を説きながら、交通事故で人が多く死に、レジャーの山で遭難し……など)を嘆いた言葉。

3、老いて年甲斐もなく情痴の世界に沈淪した。讃へて之を文豪といふ、変態の性欲、醜悪の行状を写す。之を傑作として上演する。ああ何といふ事であるか。(161頁)
 「文化国家」を標榜する戦後日本の有様を嘆き、道義を曲げ、本能に屈従するのが「文化」なのかと平泉は問いかけた。(この箇所が、以前の記事で紹介した「何といふ事であらうか」)

4、何といふ醜悪なる踊り、野卑なる叫びが、憚る所なく公演せられるのであるか。(74頁)
 テレビで流れる「俗情の描写」とその誇張を嘆いたもの。これに続けて平泉は、見るに値するテレビ番組は「名犬ラッシー」などの外国の作品に多いと言う。

5、何といふあたたかい思ひやりであらう。(111頁)
 小学校しか出られなかったある社長が、毎年の誕生日に図書館に100万円ずつ寄付し、学校に行けない子供が図書館で勉強できるようにしているという話についての感嘆。

6、何といふ大きな反響、深い感激であらうか。(151頁)
 平泉が「ひとこと」の連載で紹介した神戸の和菓子屋について、それは何という店なのかという問い合わせが各地から殺到したことについて述べたもの。その和菓子屋は、店主も店員も勤勉で、店主が店員に愛情を注いでいるという。

7、何といふ幸福な人々であらうか。(153頁)
 己の生業を楽しんでいる人々について。金のためでも名誉のためでもなく、強制されてでもなく、職業を楽しみ生きがいとしている人々への感嘆である。

8、何といふやさしい、人情ゆたかな世の中であらうかと感心してゐると、国家に対しては、話は全然違ふ。(166頁)
 ここで平泉が飄々と「感心」を表明しているのはラブソングの歌詞。「国家に対しては、話は全然違ふ」というのは、国家に福祉を求め、国防費の増額をまっぴらとする風潮を指す。なお、平泉はラブについて必ずしも冷淡ではなく、「昔の情痴の小説にも、人倫の徳義、之を規制するものがあつて、義理と人情の柵、人々の涙を誘つた」(167頁)と書いている。

9、何といふ公平率直なる呼掛であらうか。(199頁)
 アメリカ大統領アイゼンハワーの1953年4月16日の演説について。「それは強国にとつては制約であり、弱小国にとつては救ひ」であるという。ここでの平泉のアイゼンハワーへの評価は高い(「剛直の武人」)。

10、嗚呼何といふ恐ろしい変化であらうか。(239頁)
 明治30年、インドの「哲人」ヴィヴェーカーナンダが日本を通過した際に日本人の愛国心を高く評価してから、73年で日本が大きく変わったことを指す。

11、虚偽、驕奢、増上慢の世に、何といふ床しい徳操であらうか。(245頁)
 北国の寺の70過ぎの住持が、檀家になるという申し出も断って自ら托鉢に従事し続け、自ら厠の掃除を行う態度を讃えたもの。

  おわりに
 以上、『山彦』に見える平泉の「何といふ~であらうか」構文を網羅的に確認した。以前『父祖の足跡』で同じことをやったのと同様、このことに何らかの学術的意味があるかと言えば、何もないであろう。が、「何といふ~」に注意しつつ改めて『山彦』を通読してみると、戦後日本の「道義」の荒廃を嘆くという、世間が抱く「平泉らしさ」が随所で垣間見える一方で、人々――社長から清掃員、店員、子供まで――との温かい交流が見えてくる。7の「何といふ幸福な人々」とは、平泉が直に接した桶師や細工師であり、また交流の有無は明記されていないが銀行員・船員・豆腐屋・農夫であった。有名な「豚歴」発言などから、「平泉は民衆を蔑視している」と即断するのは、慎重であるべきだろう(何なら、歴史叙述や歴史研究における「民衆の視線」の不在に難癖をつける歴史学者よりも、平泉の方がより多くの地域や職業の「民衆」と接しているのではあるまいか。不用意にこのように書くと、「学者個人と“民衆”の個人とが接することと、歴史学者が対象として“民衆”と対峙することを混同するな! というお叱りが飛んできそうである。歴史学者平泉と対象たる“民衆”との関係については、また改めてどこかで述べたい)。

【参考文献】

平泉澄『山彦』勉誠出版、2008年

【別件:剽窃疑惑事件についてなど】
 久々に平泉論(今回は殆ど「論」じてないが)を書いた。ここでの平泉関連記事(ほぼ各論)の更新は、紙媒体で平泉に関する総論(※1)を書き始めたころ(2021年8月脱稿。世に出たのは2022年9月)から止まっていた。今年初めの濱田浩一郎氏の剽窃疑惑騒動(未解決)以降は、ここに何を書いたとて剽窃用フリーコンテンツになるだけではという無気力感と、平泉の著書を手に取ろうにも「日本学協会」の文字列を発見するだけで事件のことが思い出されて不愉快な気分になるのとで、平泉について何かをやろうという気概が削がれていた。
 ブログという俗な媒体で平泉論を書き始めたのは、何やかんやあって失意の中にあった私が、「たいしたことは言えないが、誰も明示的に論じていないことがあれば、それを先に文字に残すことができるかもしれない」という思いからであった。初めは平泉の著書や平泉について論じた書籍も僅かしか手元になく、著書を引用するにもメモを頼りにという有様であった(昔の記事に頁数が明記されていない引用があるのはそのせいである。よい子は頁数もメモしましょう)。そんな中、最初に書いたのが「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」であった。叙述の形式も整わず(後の記事と比較すれば、試行錯誤の文体・形式であることは明らかである)、「歴史にける」(※2)からの引用もまたメモを頼りにしたものであった。かくて形式も整わず、平泉について知ること最も少ない時に書いたものが、CiNiiで検索して出てきた論文に剽窃されている可能性が極めて高いと知った時の驚きは言い表せない。書いたものが誰の目にも止まらないのも無視されるのも致し方ない。批判を蒙るのは当然であって是非やってほしい。批判の域に達しない次元の低い悪口を批判だと強弁する輩は小人と見なさざるを得ないが、それも甘受しよう。しかし、剽窃は到底忍び得べきことではない。
 かくの如きことがあった以上、この媒体に記事を載せることに意味はあるのか、対価を得るに足るクオリティのものをBoothやBASEなどでPDFとして販売すべきなのではないか、そもそも査読に通る学術論文を書かない限り全て無意味なのではないか……などとつらつら考えつつ、無為のままに時が過ぎた。ふと『山彦』を読み返しているうちに、本記事を書こうという気が起こってきた。本稿は、実質的に独自性も新規性もほぼ皆無な紹介にとどまっており、気負うことも、悪意による被害を恐れることも必要ないため、久々にここに投稿した。


※1:「平泉澄における歴史的なものの概念 ――天皇・建国・民族――」『彰往テレスコープMUSEUM vol.03』(同人誌、2022年)所収。この読み物寄りの論文には検討の余地が多い。
※2:「歴史にける」の誤記。濱田氏はこの誤記ごと論文にコピペしたと考えられる。詳しくはこちら

 濱田浩一郎氏が日本学協会の雑誌『日本』令和3年5月号に載せた論文「平泉澄博士の人物論 ――鎌倉北条氏・楠木正成・足利高氏――」は、私の記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」(平成30年6月)の剽窃ではないか、と疑義を呈する記事を以前書いた。そこでは、剽窃と疑う根拠の内の僅かな例しか挙げていない。

 本稿では、より詳細に、濱田氏の論文が剽窃であると疑われる根拠を列挙する。なお、以下の文面は、令和5年2月20日付で私が日本学協会に送った書面の内容の一部である。(章立ての数字のみ変更した。また、分かりやすいように、私の文章の引用は青濱田氏の文章の引用は赤に色をつけた)

 

【目次】

1、私の記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」(平成3062日)と濱田氏論文の「三 足利高氏」の内容

2、私の記事と濱田氏論文の類似

 

ーー以下ーー

1、私の記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」(平成3062日)と濱田氏論文の「三 足利高氏」の内容

 濱田氏論文の「三 足利高氏」は、私が平成30年に発表した記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」の内容と酷似している。

 以下、私の記事の内容と、濱田氏論文の「三 足利高氏」の内容を紹介する。そしてその類似点を列挙し、それらの類似が偶然の一致とは考えられない理由を説明する。

 

 私は「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」で、平泉が足利尊氏・直義を全否定した理由について、平泉の『物語日本史(中)』(『少年日本史』の文庫版)の記述から考察した。まずは「平泉は、足利尊氏・直義を徹底的に批判した。後述するが、批判を通り越して、全否定さえする勢いである。なぜ、平泉は足利氏を否定したか。「天皇に背いたからに決まってるだろ」と、思われる方もいらっしゃるかもしれない。それでは、問おう。足利氏と同じように朝廷に弓引いた武士・北条氏は、足利氏と同じほど批判されているだろうか」という問いから導入し、平泉の北条氏への評価(残忍で刻薄、尊王でもない。それでも、「尚武」の気性は認めている)などを紹介した。また、「足利尊氏が優れた武将で「勇気」も「尚武」も併せ持つこと、足利直義が政務に「手腕」を発揮したことを、中世史が専門の平泉は当然熟知しているはずである。足利氏も、尊王の精神はないが、勇気と手腕、尚武の気性は持っていると評価してもよいはずであろう。となると、平泉が足利氏を全否定するには、単に「天皇に背いた」という以上の理由があるのではないだろうか」という問いを立てた。

 続けて、平泉が「足利氏の本質を、最も明瞭にさらけ出している」とする、足利氏の内訌(観応の擾乱)を通じた足利氏への評価「彼らには道徳がなく、信義がなく、義烈がなく、情愛がないのです。あるものは、ただ私利私欲だけです。すでに無道であり、不信であり、不義であり、非情であれば、それは歴史においてただ破壊的作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献することはできないのです」を引用し、「足利氏には「私利私欲だけ」しかない。ここが肝の一つであろう」と強調した。さらに、「人倫に悖る兄弟殺しなどの内ゲバは尊氏だけでなく、源頼朝も北条氏も行っている」が、「平泉は頼朝の残忍さを批判しつつも、頼朝には「上下の秩序を維持し、天下の治安を保つ」という功績があり、幕府政治は「変則」ではあるものの「当時の実情を見れば、あの方法以外に何か良い方法があるかといえば、まずないでしょう。(中略)頼朝は、感服すべき偉大なる政治家です」(143頁)と高く評価している。欠点は欠点としてあれど、頼朝には大義があったと見なしたといえる」と書き、平泉が足利氏と源頼朝を同列には見ていないことに注意を促した。そして、以下のように結論づけて、記事を終えた。

もう一つの足利氏評価の肝は、「歴史において破壊的作用をするだけであって、継承及び発展には、微塵も貢献することはできない」というところだろう。ここには、平泉の歴史哲学が関わってくる。

 平泉の歴史哲学について詳述するのは避けるが、簡単に言えば、国史学の意義は、歴史上の偉大な人物(楠木正成など)の人格を「回顧」によって感得し、継承することにある。

「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」1925年)

 重要なのは、「継承」であり、忌むべきは「破壊」である。歴史上の変化は「発展でなければなら」ず、「革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する」(「国史学の骨髄」1927年)のである。天皇を中心とする日本の歴史を閑却し、私利私欲のためだけに動く足利氏は「継承及び発展には、微塵も貢献することはできない」のである。

 畢竟、足利氏には理想も大義もなく、私利私欲のためにだけ動いて人倫を蹂躙し、それゆえ「歴史」に「破壊的作用」を及ぼすのみであって、足利氏は歴史になんらの貢献を果たしていない。足利氏に「勇気」や「手腕」があたっとしても、歴史に破壊的作用しか及ぼさない限り、評価するに値しないのである。

 そうみなしたからこそ、平泉澄が足利氏を全否定したと結論づけられよう。

 

 続けて、濱田氏論文の「三 足利高氏」の内容を紹介する。

 濱田氏は、平泉が「全否定ともいうべき勢いで、足利氏を糾弾されている」とし、なぜ博士は、足利氏に対し、厳しい判定を下したのか。「皇室(後醍醐天皇)に背いたからだ」と多くの人は思われるであろう。しかし、皇室に弓ひいたという点では、承久の変における鎌倉北条氏も同じである」(25頁)と北条氏と比較する視点から論を始める。続けて、平泉の『日本歴史物語(中)』の足利氏批判を紹介した後、『少年日本史』でも「博士は観応の擾乱を最悪とされている」ことを強調し、平泉の「彼らには道徳がなく(中略)継承及び発展には、微塵も貢献することはできないのです」という糾弾を紹介する。そして、「しかし、兄弟・親族間の抗争は、源頼朝も、鎌倉北条氏も体験している。それでも、博士は頼朝を残忍としつつも「上下の秩序を維持し、天下の治安を保」った「感服すべき偉大な政治家」と高く評価しているのだ。前述したように、博士は鎌倉北条氏も一定程度、評価されている。足利氏も、戦塵にまみれついに幕府を開いたことを見れば、尚武の気風もあったとは思うが、それでも博士は足利氏を全否定する。それはなぜか」と、足利氏と源頼朝・北条氏への評価を示し、平泉が足利氏を全否定したのはなぜかと問う。

 

「私欲」「私利私欲」―源頼朝らと違い、足利方の行動に大義・理想なき「私欲」を見たからこそ、博士はここまで足利氏を批判されたのではなかったか。私利私欲は、無道・不信・不義に繋がり「歴史においてはただ破壊的作用をするだけ」で「継承及び発展には、微塵も貢献することはできない」が故に、博士は足利氏に筆誅を加えたのである(26頁)

博士は「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」(「歴史における真と実」『我が歴史観』至文堂 大正十四年、後に平成十年刊行の田中卓編『平泉博士史論抄』青々企画に収録)との思想を持っておられた。(中略)博士にとって重要なのは、「継承及び発展」であるが、足利氏の行動は私欲を根本とするため「歴史においてただ破壊的作用をするだけ」であった。このような思考法によって、博士は、足利氏を全否定するに至ったのであろう。(27頁)

濱田氏は以上のように論じて論文を終えた。

 

2、私の記事と濱田氏論文の類似

 濱田氏論文の「三 足利高氏」と、私の記事「平泉澄はなぜ足利尊氏・直義を全否定したのか」には、内容や構成、言葉選びにおいて、大きな類似がある。共通する主張や構成を箇条書きにすると以下の通りである。

・平泉が足利氏を全否定した理由は、単に天皇(皇室)に背いた(弓ひいた)から、というだけではない。

・北条氏も皇室に弓引いたが、平泉は北条氏を全否定はしていない。

・足利氏の骨肉の争いを平泉は批判するが、同じく親族争いを演じた源頼朝や北条氏については、全否定していない。

・源頼朝には、足利氏と違い「大義」はあった、と平泉は考えていた。

・足利氏にも「尚武」はあった、と平泉が評価してもよさそうだが、していない。

・平泉の思想・歴史哲学は「歴史の継承及び発展」を重視するものであるため、「理想」や「大義」を持たず、私利私欲のためだけに動いて歴史に「破壊的作用」を及ぼすだけであった足利氏を全否定した。

 また、「全否定」という表現が一致している。さらに、平泉の思想・歴史哲学を紹介するために引用した平泉の文章の箇所(「歴史における真と実」の「歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である」)も完全に一致している。しかも、平泉の当該論文の名称は、正しくは「歴史に於ける実と真」である。「おける」という平仮名表記は誤記であり、しかも「実」と「真」の順番が逆である。その2つの誤記まで一致している。

 濱田氏論文の「三 足利高氏」と私の記事の違いは、私が平泉の足利氏論を『物語日本史』(=『少年日本史』)だけから引用しているのに対し、濱田氏が『日本歴史物語』からも引用していることくらいである。しかも、それによって主張の内容が大きく異なるかと言えばそうではなく、主張の内容も議論の進め方も一致している。

 議論の進め方と構成の一致、言葉遣いの一致、さらには「歴史に於ける実と真」からの引用箇所と論文タイトルの誤記の一致などから、私の主張と濱田氏の主張の一致は偶然の一致であるとは考えられない。

 以上のことから、濱田氏は私の記事を参考文献として明記しないまま、私の記事の内容を参照しつつ論文を書き、私の議論を剽窃して自らの成果として発表したと私は考える。

はじめに
 濱田浩一郎氏が日本学協会の月刊誌『日本』令和3年5月号に載せた「平泉澄博士の人物論 ――鎌倉北条氏・楠木正成・足利高氏――」についての疑義(私の記事を参照しつつ書きながら、平泉の北条氏論については先行研究として明記せず、足利氏論については内容を引き写したのではないかという疑義)を以前の記事に載せた。
 私は1月16日22時33分にその記事と同趣旨のメールを月刊誌『日本』の問い合わせアドレスに送った(そのメールには記事のバックアップファイルを添付した。濱田氏論文発表よりも早い年次が最終更新日になっている)。本稿では、その後のやり取りについて説明する。

1、メールのやり取り
○最初の応答
 1月19日16時35分、月刊誌『日本』の副編集長から応答のメールが来た(副編集長の個人アドレスと思われるアドレスから)。そこには、濱田氏の意見が記されている。その内容は、①濱田氏の執筆時の事情、②今後の対応について のものである。
①    濱田氏の執筆時の事情
濱田氏は「拙稿を執筆したのがもう約2年ほど前という事もあり、記憶が確かではない面もあ」るが、「ブログを閲覧した記憶はありません」と主張する。濱田氏は平泉の複数の著書を手元に置いて、鎌倉北条氏、楠木正成、足利高氏の論説の変化を辿ったとし、論文に書いたのはその研究による成果であるという。その上で、私が「足利氏や北条氏に関する同趣旨のテーマ、文章を発表されておられた」という事実については認めている。
②今後の対応について
 将来、濱田氏が著書に該当論文やそれに類するテーマの論をまとめる際には、主要参考文献一覧そして出典として私の記事・論題を明記する。該当論文には加筆して、私の記述を先行研究として明記するとともに、私の方が先に同様の見解を記載していたことを明記する、という。

○最初の返信に対する私の回答
 1月19日22時50分、私はそのメールに返信した。濱田氏の返答に対して質問を述べ、日本学協会としての組織としての見解を質問した。その返信の本題に関する文章は以下の通りである。

濱田氏の弁解は、北条氏評価についての「抑制的・限定的になった」と言うのは独自研究を経ての濱田氏自身の言葉選びであって、使う言葉が私の記事と一致したのは偶然であり、私の記事を閲覧してはいないという主張だと理解しました。仮にその一致が偶然であると認めるとしても、濱田氏に問いたいのは、

『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向きもあるが、同書では泰時を「英傑」と評しているので、限定的とするのが正しいかは議論の余地があるだろう。
という論文の記述についてです。私の記事を閲覧しておらず、私の見解を指していないのであれば、「『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向き」とは、誰がどこで書いている記述を指すのでしょうか? 濱田氏論文該当部の主張の独自性は、その「向き」の見解を批判することにあるはずであり、その「向き」を明示することはできるはずです(皇学館大学大学院を出ておられる以上、そのあたりの学問の作法は十分ご存じのはずでしょう)。管見の限り、「『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になった」と主張する先行研究は寡聞にして存じ上げません(あるならばご教示ください)。


○2度目の相手の返信
 1月20日13時15分、月刊誌『日本』の副編集長から応答のメールが来た。副編集長は私が日本学協会の組織としての見解を聞いたことを「無礼」とし、「以後メールをお控え下さい」と今後のやり取りを拒絶した。また、濱田氏の回答も添えられている。濱田氏は「『建武中興の本義』以降、「北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向き」は、私や「誰か特定のご見解や研究成果を指すものではございません」とし、次のように続ける。

私も、平泉澄先生の戦前、戦後の様々なご著書を読み進めていくうちに、『建武中興の本義』の著作以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったのではないかと感じられる向き(傾向)もあるのではと感じるところもありました(また、私でなくても、そのように感じる方や思われる方もおられるかもしれないと考えました)。
よって、『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向きもあるがと、自らの内面(心)の動きを記したものです。

 

2、濱田氏の応答について
 実際に濱田氏が拙稿を閲覧したという証拠がない(濱田氏の通信機器の通信履歴を開示請求しない限り)以上、その「記憶」が事実か否かを争うのは困難であり、それを争うのは無意味である(尤も、本当に見ていないと主張できるのであれば、「記憶がない」という政治家のような答弁ではなく、「事実はない」と主張してもよさそうなものではある)。
 最大の問題は、「『建武中興の本義』以降、北条泰時の高評価が限定的・抑制的になったとする向きもあるが、同書では泰時を「英傑」と評しているので、限定的とするのが正しいかは議論の余地があるだろう。」という濱田氏論文の記述についてである。この記載は、他の誰かの見解を批判しているようにしか読めないが、濱田氏はここでの「向き」とは、誰か特定のご見解や研究成果を指すものではなく、「自らの内面(心)の動きを記したもの」と主張する。
 もちろん、文章を書く際に、「こうも考えられるかもしれないが、やはりそれは違う」と思い、その自己内対話を表に出して記述することはあるだろう。その場合によく見る表現は、「~という疑念も湧く。しかし、」「~であるとも考えられるかもしれない。しかし、」といったものであり、仮に「向き」という言葉を使うとしても、「~という向きもあるかもしれないが、」「~という向きもあろう。しかし、」といった推定表現になるはずである。「~とする向きもあるが、」をそのような表現として捉えるのは、現代の一般的な日本語の用法として困難であり、不自然である。
 あまりにも、言い訳としては苦しくないだろうか。濱田氏は、私の記事を閲覧していないと主張するのに急なあまり、無理筋の強弁をしているようにしか見えない。
 しかも、この強弁は悪手ではないか。仮に濱田氏が私の平泉の北条氏論についての記事を閲覧していたと認め、この「向き」を私の記事であると認めたとしても、それだけでは濱田氏の「剽窃」にはならない。「向き」つまり他人の意見と、自分の意見を分けて書いているためである。仮に、濱田氏が「北条氏についての記事は閲覧し、先行研究として明記せずにその内容を批判した。しかし、私が見たのは北条氏についての記事だけであり、足利氏の記事は見ておらず、足利氏論について内容を引き写したのではという疑いは当たらない」と主張するのであれば、筋は通るのである。しかし、「向き」とは濱田氏の内面の見解の一つだという主張は、北条氏論についての記述までも「他人の意見を自分の意見として書いた」という疑いを招くことになるのではないか。墓穴を掘っているように思えてならない。もし、濱田氏が本気でその「向き」も濱田氏自身の見解であると主張するならば、その「向き」の中身も私の記事の「剽窃」ではないかと疑惑を向ける。

3、副編集長の応答について
 前述の通り、月刊誌『日本』の副編集長は、以後の私との応答を拒絶した。

2、日本学協会様の見解について
日本学協会様としては、「濱田氏の論文が拙稿の剽窃である」という私の主張に対して、どのような見解をお持ちでしょうか? 濱田氏の主張に理があるとお考えでしょうか? ○○様に対してこのようにお聞きすることは申し訳なく思いますが、是非とも組織としての見解をお伺いしたく存じます。今後の対応についてのこちらの希望は、日本学協会様の見解も踏まえて出させていただきたく思います。

という私の質問に対して、

2は如何なる意図を持っての質問ですか。
こちらは誠意を以て対応し、執筆者と繋いでいるつもりです。
しかるにこのような言を為すとは無礼にも程がある。
こちらの「見解」など気にせず「対応」されたらよろしい。
以後メールをお控え下さい。

と啖呵を切り、こちらの行動にフリーハンドを認めた。
 どうも副編集長は「今後の対応についてのこちらの希望」という文言を、恫喝か何かだと勘違いしているようである。だが、ここで言う対応とは相手方(月刊誌『日本』または日本学協会または濱田氏)の対応を指す。こちらの動きは「対応」ではなく、相手方の「対応」への「希望」である。
 もし日本学協会が調査を行った上で私の主張を認め、濱田氏の論文を「剽窃」と見なすのであれば、然るべき対応(ホームページでの謝罪文の掲載、月刊誌上での謝罪記事の掲載など)を取るべきであると思う。もしこちらの主張を認めず、濱田氏の論文は「剽窃」でないとし、私がそれ以上の主張をしないのであれば、以後は濱田氏が取るという対応と私が折衝するということになる。組織としての見解を踏まえて、相手方の「対応」に対するこちらの「希望」の出し方が変わるのは当然である。
 およそ「学」を掲げる団体として、自らが発行する刊行物に掲載された論文に「剽窃の疑惑がある」と指摘されるのは不名誉のはずである。もしその「剽窃」が事実であると認めるならば自身の社会的信用を守るためにも謝罪するべきであろうし、その訴えを認めないのであれば相手の主張は当たらないとして堂々と退け、執筆者(濱田氏)の名誉を守るべきであろう。
 副編集長は「誠意を以て対応し、執筆者と繋いでいる」と主張しているが、裏を返せば、「この問題は当事者同士で話し合えばよく、我々は組織として無関係であり、見解を出す責任はない」という発想を持っているように思える(しかも、メールを控えろという拒絶によって、「執筆者と繋」ぐ責任すら放棄している)。組織としての見解を取りまとめて提示することも、それ以後の応答も拒絶した。これは担当者としての責任の放棄である。この拒絶は、副編集長が組織の人間としての責任を忘れ、個人としてなした、怒りに任せた振る舞いであると見なさざるを得ない。
 日本学協会(平泉学統を承けて優れた学術誌『藝林』を発行する藝林会を中核に持つ)が組織としてそのような不誠実な対応をするような団体であるとは到底思えない。が、この副編集長は私が勝手に抱いていた信用を自ら破壊したいようである。かような人物が対外窓口を務めていることは、日本学協会にとっても、濱田氏にとっても、私にとっても、不幸であろう。


おわりに(2023年2/2追記)

 1/20に日本学協会のTwitterアカウントにこれまでの経緯と「3、副編集長の応答について」と同じような内容のDMを送ったが、2/2現在、既読はついているが何の応答もない。

 改めて、日本学協会には、濱田氏論文の剽窃疑惑について、学術団体としての公式な調査とその結果(見解)の提示を求めたい。いやしくも「学」を称する「協会」が、自らの刊行物所収論文への剽窃疑惑を、雑誌『日本』編集部の一担当者の独断で握り潰してよいものとは思われない。

 また、濱田氏にとっても、この問題を放置することは得策ではないのではないか。疑惑がかかっている論文を収録した本を出すという計画があるというが、疑惑が晴れないまま出版に漕ぎつけることが良いことだと考えているのであろうか。下手をすると、出版社にまで迷惑がかかるのではあるまいか。もし仮に、雑誌『日本』の副編集長が応答を拒絶したことをもって問題が解決したものと考えるのであれば、それは大きな間違いである。