来島城 レポに第3弾です。
その2のレポ
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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル
現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ
跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。
縄張図
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村上神社の石段を登りきりました。
まずは、南の 三の丸 へ。
とは言っても、ただ特段に目立った遺構ではなく単純な 削平地 です。
約2年前ですが、もっと草が茫々だった記憶があるのですが…。
これは、村上神社の近くだと思うのですが、瓦が散乱していました。
すわ、往時の建物の瓦かと思いましたが、多分、建て替え前の村上神社のモノ
ではないかと推測されます。
この神社は近年建て替えをしたハズですから。
いつも書いていますが、瓦にはそう詳しくありません。
詳しい方なら、直ぐ判るんでしょうね。
11月とはいえ、まだまだ木々の緑が強い状況。
ただ、コロナの蔓延で、外出を控えていたので、ここ3年季節を感じるのは
乏しかった様な気がします。
暑い、寒いというのは仕事の際に感じていましたが、木々や草花を堪能する事が
殆ど、なかったですね。
まぁ、草花を愛でるというイメージが僕にはついてないですが…。
さて、そんな緑が強いこの場所が、二の丸 です。
この辺りは幅がないのですが、北に進むと、広がりを見せてきます。
ちなみに左(西)が四国になります。
二の丸の北端にやってきました。
ただ、この辺りは、南に向かってやや下っているんですよね。
削平が少々甘いのです。
もともと、こんな感じだったんだろうか。
それとも、改変されたんでしょうか。
尚、左(北)に見える傾斜は 二之丸上段の切岸 になります。
えらい、斜めになっているでしょ。
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次の遺構を見る前に、ここであのコーナーをぶち込みます。
その2で書いた事を実現(大袈裟)させたいと思います。
この城の城主というか、来島村上氏の当主の紹介です。
まずは戦国中期の当主である『村上通康』からです。
彼は、河野氏、特に河野弾正小弼通直(彼の二代跡に、伊予守道直がいる)の
庇護者であった事もあり、さらには、安芸の毛利元就の信頼も厚かった人物です。
湯築城主である河野通直は男子いませんでした。
そこで、河野氏に対して反抗した家臣の反乱鎮圧の功績があった他
通直の女婿である通康に家督を譲ろうとしました。
しかし家臣団は以前、総領家と対立していた予州家の、河野通政
(通直の実子である説もあります)を擁立し、湯築城を攻撃します。
通直は通康と共に、村上来島城の本拠である来島城に逃れ、籠城します。
この一連の騒動を天文伊予の乱と言います。
その後、通直は家臣団が和解します。
和解後に通康は通直によって、河野氏の家紋と越智姓(河野氏が先祖と称した氏族)
を認められます。
能島村上氏で家督争いが起こると、後に家督を継ぐ村上武吉と対峙したと
されます。
しかし、両者の調停も試みていたという説もあるようです。
武吉と対立した村上義益が病没すると、和睦し、通康の娘が武吉に
嫁ぐ事となります。
河野通直没後、通政(家督相続後の翌年死去)の弟、河野通宣の時代になると
河野家臣団の主力となり、荏原城主の平岡房実と共に内政、外交、軍事を
取り仕切る様になります。
1555年の厳島合戦においては、毛利元就の嘆願もあり、毛利氏の味方して
勝利に貢献しています。
尚、三島の村上氏の中では唯一、厳島合戦への参戦が証明されているのが
来島村上氏です。
その後、地蔵ヶ嶽城の宇都宮豊綱が河野氏と対立すると、房実と共に通康は出陣。
宇都宮氏の城を攻略していきます。
宇都宮氏が劣勢に立たされると、土佐の一条兼定が伊予に侵入すると、毛利氏に
来援を請っています。
毛利元就は、厳島の恩があるという事で、援軍要請を聞き入れたのですが
援軍の派遣が派遣される前の、1567年10月に急病の為に引き揚げた
湯築城にて没します。
こんな形で一旦、村上通康の話しをおしまいにします。
が、本編の中で時々、呟くかもしれません。
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では本編に戻ります。
二の丸に入って、切岸を散策していると、野面積の石垣 の残欠が
へばりついていました。
これはなかなか良好な状態での残存と言えるでしょう。
最初に訪れた時に、ここに石垣の残欠が残っていた事を知ったのですが
その時は、一か所、しかもかなり石の数が少ない塊を見ただけだったのです。
ただ、上の画の石垣の様な、思ったより数の多いのは今回初めて見ました。
さらには、その残欠が、各所で見つける事ができたのは驚きでした。
あの時は何を見ていたのかと、愕然(言い過ぎ)としてしましたが、まだまだ
建物もない城を見る経験値が少なかったし、おそらく草などが隠していたのだ
という言い訳をさせて頂きます。
特に後者の要因が大きかったのではと(いう言い訳)。
来島海峡の直ぐ傍にあり、伊予地乗りと呼ばれる四国沿岸を航行するルートを
押さえるのは持って来いの場所にある来島。
そんな島に、石垣で固められた城があれば、航行する船舶からに対して、示威行為に
なりますよね。
ただ、来島氏がこの島を総石垣(じゃないかもしれんが)にする必要があったのかは
甚だ疑問です。
ここからは、あくまでも推論…しかも自信のない推論ではありますが、来島氏が
豊後森に移封になり廃城となったとされているのが違っていたら…。
もし関ヶ原以降も『城』の機能を持たしていたら、この辺りは藤堂高虎に支配していた
ハズ(これも推論)ですから、この城も甘崎城の様な機能を持たせていたのでは
ないかと考えてもおかしくないのではと思うのです。
ただ、四国の沿岸を通り西上する大名が考えられるのは、高虎を領地を接していた
加藤嘉明だけでしょうけどね。
あくまでも、勝手な推論ですので…。
甘崎城レポ
まぁその前に、この石垣の残欠が、本当に応じから残っているものかという
証明が必要ですが、こればっかしは、無理な話しではあります。
そんなのが直ぐ判れば問題ないんですけどね。
さて、難しい話しはここまでにして(何度も使っているフレーズ)、二の丸の
東側にやってきました。
縄張図によると、この下に、曲輪が続いている様なんですが、真下に見えるのは
心月庵の瓦屋根、そしてさらに奥には、大きなタンカー。
多分、見る方向が違ってますね
まぁ、こんない木々が生い茂っていると、見ても判らんかったでしょうが。
居館の背後にある尾根が見える予定でしたが、この有様
振り返って、二の丸を見ます。
既にお気づきかもしれませんが、ここには多くの桜の木が植わっています。
桜の咲く頃には、花見客が多いのかもしれませんね。
ちなみに、能島城では、遺構破壊の観点から、多くの桜の木が伐採された様です。
ビールの缶などが残っている城跡が散見されますが、ここは皆無でした。
二の丸に上段がついていました。
ただ西側だけにあった様な(うる覚え)。
だとすると、腰曲輪 と言えるかもしれません。
しかし、縄張図からすると、この削平地は東にも続いていて、帯曲輪状に
なっているんですが…。
縄張図と少々、違う感じを受けています。
ここから本丸へ登る道があります。
ただ、この通路は、往時からのモノではないそうです。
実際、本丸虎口は東側にあったとか。
という事は上の曲輪は、帯曲輪であったのかもしれません。
で、話しは変わって、登り坂の途中に 石垣の残欠 を見る事ができました。
少し期待はしていたのですが、こんな所にもあるのというのが、正直な感想で
あります。
ただ南面のそれよりは、石のサイズは小さめです。
これなんかは、石が単品でした。
こういうのも探していくのが、城巡り10年以上の成果かもしれません。
カタツムリの残骸…。
南無…。
レポに載せる前まで、この画は何なのか判りませんでしたが、恐らくは本丸の
南西隅、上の石垣の残欠が残っていた辺りを撮ったモノだと思われます。
ここにも石垣の残欠がないかなと思いながら、覗いたのでしょう。
なかったけど。
前回のレポでここが本丸虎口と大々的に書きましたが、上で書きましたが
違います。
ここじゃありません。
知識が増えると、以前のレポで嘘をついている事にもなるんですよね。
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まぁ、今回のレポも嘘を紹介している可能性もありますが。
という事でその3は終了です。