21.11.03 来島城[村上の姓を捨てた来島氏の本拠]その2 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

来島城 レポに第2弾です。

 

 

その1のレポ

 

 

   ---------------------------------------

 

 

見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

   ---------------------------------------

 

 

登る事ができなかった出丸から再び、居館のあった心月庵まで降りて行きます。

という事は、石垣 の残骸をもう一度、見る事ができます。

ちょっと遠くからになりましたが、こ表面が加工されている石もありますね。

尚、この場所はちょっと堀切の様な感じがしますが、恐らく違います。

 

 恐らくですけどね。

 

 

 

横から見ると、余計に堀切ちっくに。

確かに、この右(東)に登れなかった出丸がある訳ですから、堀切ちっくですよね。

 

 でも違うと思います…たぶん(トーンが落ちている)。

 

 

 

この石垣の反対側にも、石垣 の残欠がありました。

ただ、ここで疑問が浮かびます。

居館の背後。

しかも、通路状になっている場所を、しかも両サイドを石垣で固めてどうするのかと。

もしかして、後世のモノなのか?という思いが、強くなってきました。

 

 まだまだ城の勉強が必要と感じるのはこういう時なんですよね。

 

 

 

ただ、専門家ではありませんので、追及もなかなかできないです。

楽しんで城巡りをする事が、モットーですから。

まぁ、判るようになれば、もっと楽しいとは思いますけどね。

 

 この城は本当に、石垣の真偽が判り難いのが難点ではあります。

 

 

 

さて、場所は居館を通り過ぎて、再び『堀』と呼ばれる場所まで戻ってきました。

対岸にも石垣がありますが、これはどうみても後世のモノでしょう。

何せ、落し積ですからね。

この島は、全盛期、港町としてかなり栄えていたでしょうから、人口もそこそこ

多かったと想像できます。

従って、廃城後も石積もされていたのでしょうね。

 

 そういう背後関係もあるから、石垣が何時の時代か判らんのですよね。

 

 

 

これは…電柱を撮った画になってしまっているなぁ~。

 

 堀はもっと奥の方ですから、何を撮ったんだろう?

 

 

 

ただ、手前の辺りまで凹んでいるんですが、この辺りまで堀だったんか?

 

 よく判らん所ばかりやなぁ~。

 

 

 

その隣(南)には、コンクリで固められた石垣もあるんですが、その横にも

石垣があるんですが、正直、怪しさ満点です。

 

 ここまで偽物かもしれない石垣ばかり載せているなぁ~。

 

 

 

さらに南に進むと、石段があります。

三之丸の北にある、村上神社の参道の石段ですね。

その隣には…石垣ではなく岩盤ですな。

 

 錯覚状態に入っちゃいました。

 

 

 

という事で石段に登って上の曲輪を見て廻ろうと思ったのですが、下を覗くと

削平地らしきものがあるじゃないですか!

 

 縄張図には曲輪的なものは描かれていないが…。

 

 

 

削平が甘いかもしれませんが、確かに 削平地 ですね。

ただ、ここも石垣同様、往時のものか、それとも後世のものかと言われると

正直、判りません。

何時もなら、前者と言い切ってしまうのですが、この城では疑心暗鬼になって

しまいます。

 

 前者だと思いたいですけどね。

 

 

 

この削平地から南へ進むと、切岸 かなと思わせる絶壁がありました。

もしかしすると、自然地形かもしれませんが、ここを登るのは、至難の業です。

 

 そんな中にある細い道を歩きます。

 

 

 

判りますが、真ん中にある、細い道。

道と言えるかは、自己判断にさせて頂きますが、巨体が通るにはかなり至難の業です。

 

 切岸を直登する方が至難の業ではありますが。

 

 

 

そんな厳しい道を南へさらに進むと、見事な 野面積の石垣 に出くわしました。

しかも、なかなか良好な状態で残っているんですよ。

さらに隅部は 算木積 になっているんですよ。

算木積の石垣という事は、時代が下る…という事は来島通総の代のモノと

勝手に推測します。

 

 『勝手』ですので、反論は受け付けます…があまりしないでアセアセ

 

 

 

まぁ、反論が来る程、読んで頂ける方がいないと思うので…。

さて、話しは野面積の石垣に戻りますが、この石垣の前は、足場を確保するのに

かなり難渋しました。

従って、石垣を正面から捕える事は、不可能です。

この画なんて、真ん中の部分だけ光に当たっている+アングルが超がつくほどの

斜めから狙ったので、石垣感が全くありませんよね。

でもそんが画でも載せてしまうのが、syunpatsuryoku1号のブログです。

 

 タイトルは『ぬるま湯に浸かった状態』です。

 

 

 

今頃、ブログの案内をした所で…。

南にどんどん進んで行くと、石垣 自体はかなり低くなりました。

もう少し高かったかもしれませんが、往時から滅茶苦茶高く積まれた訳では

なそうな気がします。

ただ、目の前に木々がなかった場合、海からこの石垣が見えたと考えられます。

という事は威厳を見せつけるという意味あいが強かった、可能性がありますね。

 

 ただ、目の前は木々鬱蒼としているので、実感はありませんが。

 

 

 

さきほど、『来島通総』という名が出てきました。

元は父と同じ『村上』を名乗っていたのですが、彼の代で『来島』の改姓します。

そんな通総、そして父である『村上通康』については、この城のレポの中で

詳しくとまでは言えませんが、書ければなと思います。

 

 能島村上氏とは違う動きをしているので、お楽しみに。

 

 

 

自分にプレッシャーをかけちゃっているが、大丈夫だろうか…。

いかん、また話しが脱線しておるアセアセ

という事で、改めて、主題に戻ります。

場所によっては 石垣が残欠 になってしまっている場所もあります。

この辺りは自然に崩落といより、人為的に剥がされてしまっているのでしょう。

港を造る際に、城の石を使ったという事例があるのですが、この城もその可能性が

ありますよね。

ちなみに、この島の港は現在、コンクリで固められていますけどね。

 

 手頃な大きさの石ですから、再利用しやすいでしょうね。

 

 

 

ちなみに、この辺りに石垣があるという情報は、2014年に高虎サミットでの

イベントの一つに、今治の沖にある島を廻るクルージングに参加した際

ガイドさんが、上を通過する際に、アナウンスしていたんですよ。

その記憶が残っていたので、探索する事にしたのです。

そして、それを無事に見つけました。

尚、この石垣。

今回の来島城探訪で、最後の最後で出てくる遺構に次いで、インパクトに残る

モノでした。

 

 見れて、本当に良かった。

 

 

高虎サミットで来島城に上陸した際のレポ

 

 

 

では、石垣を堪能した所で、あの石段を登って、主郭へ向かいます。

 

 隠れている石垣を見て、登ります。

 

 

   ---------------------------------------

 

 

では、その2はここまでです。

その3へと続きます。