21.11.03 来島城[村上の姓を捨てた来島氏の本拠]その1 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

ここ最近は大作(言い過ぎ)のレポばかりになっていますね。

しかも、既にレポ済の城を改めて訪れるモノばかりで…。

今回登場する城も、既にレポしていますし、過去既に3度は訪れています。

 

 

昨今、村上海賊(以前は村上水軍と巷間では言われていました)がクローズアップ

されている気がします。

数年前には、某放送局で、某有名アイドル(俳優)が、村上海賊を主題にした

番組を2時間スペシャル(たぶん)で放送されていましたし、今治市の

村上海賊ミュージアムの学芸員さんが、全国放送に出演したりしていますね。

ちなみに、この学芸員さんの講演を数度、受けさせて頂いています。

ただ、村上海賊の中心にいるのは、能島城を本拠とした能島村上氏ですよね。

確かに、彼らの研究がかなり進んでいるのもあるでしょうが、今回のレポの城を

本拠としていた一族は、少々毛並みが違う様な気がします。

毛利氏との絡みが多かった(離反もしたりしてますが)イメージのある能島村上氏と

違って、四国側に近かったからか、伊予守護の河野氏との接点が多かった感じを

受けています。

勿論、毛利氏との繋がりもありましたが、河野氏と血縁関係があった事も

原因なのでしょうね。

ちなみに、もう一つの因島村上氏は、愛媛県人の私からすると、どうしても

あまり馴染みがないもので…。

地理的な要因もあるでしょうが、毛利氏特に、小早川氏とベッタリという印象が

強いですね。

 

 

今回訪れる城のメインの遺構を見る為、この日は早朝ではなく、ユックリとした

スタートです。

今治市街を突っ切り、まず向かったのは、波止浜港。

波止浜湾にあるこの港は、波が穏やかで、天然の良港になっています。

そんな湾の両岸には、造船所があります。

ちなみに今治市は、日本一の造船の街でして、建造隻数では国内の約20%を

占めています。

そんな巨大な工場を横目にしながら渡船に乗船して数分すると、湾口を塞ぐ形で

浮かぶ、来島に到着です。

この島こそ、来島村上氏が本拠としていた 来島城 です。

 

 

前回のレポ

 

 

チラ見レポ

 

 

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見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル

現存建築物(移築建築物含む)はピンク、再現建築物(模擬建築物含む)はオレンジ

跡地(櫓跡など)はグリーン、その他(銅像など)はブラックで表記します。

 

 

 縄張図

 

 

 縄張図&見所

 

 

 想像図(新)

 

 

 想像図(旧)

 

 

 遠望写真

 

 

 簡易図

 

 

 説明(新)

 

 

 説明(旧)

 

 

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到着早々、思った事が…。

約10年前にこの島を訪れた時より、島に住まわれている方が減っている事。

明らかに空き家となっている感じの民家が増えました。

あの時から、御年輩が多いと感じていましたが…地方の過疎化は深刻ですね。

特に交通の便が悪い、島嶼部は深刻なのではないでしょうか。

 

 

さて、山を登り始めます…と言っても、小さな島ですから、標高はそこまで

高くありませんけどね。

石段を登ると先ず見えてくるのが、標柱と共にある孤を描く、野面積の石垣

です。

ただ、前回も思ってましたが、孤を描く石垣って沖縄のグスクしか知らん

のですよね。

しかも言った事ないし。

だから、後世の改変の可能性は否定できないと思っています。

ただ、今回、新しい想像図を見ると、石垣が円状になった様に

描かれているんですよね。

真相はいかに!って感じです。

 

 

 来島城の写真では、この場所を撮られている画が多い印象があります。

 

 

 

ただ、この円状に積まれて部分以外は、本物かなと思います。

大木の真下にある下の石なんて、殆ど手が加わってない石でしょう。

 

 右奥に写っている石垣はかなり怪しいですけどね。

 

 

 

この反対側(南)は斜面となっていて、写真を撮る態勢が不安定でしたが

何とか、野面積の石垣 をキャッチ(死語)しました。

こちらも、ほぼ無加工の石を積み上げています。

ちなみに茫々に隠れてしまっていますが、その中にも石垣は積まれています。

 

 高石垣っていう程ではないですが。

 

 

 

ここが態勢を維持する限界ですが、これより先は、石垣がなさそうに見えました。

新想像図では、まだ続いている風ですが、この辺りは撤去されたりした可能性も

あるでしょうし、元々なかったかもしれませんしね。

 

 ただ不自然な消え方をしている風に見えました。

 

 

 

振り返って見てみます。

ちなみに、この石はどこから持ってきたのでしょう?

来島の周囲は岩礁があるので、そこから持ってきたのでしょうか。

ただ、それにしては石が丸すぎるきらいもないではないが…。

 

 石垣って地産地消が多いですからね。

 

 

 

ではこのエリアの探訪はここまで。

移動していきます。

 

 大袈裟に言ってますが、ものの数分の滞在でした。

 

 

 

これは矢竹でしょうか。

先程の石垣の場所にもそれらしきものがあったのですが、こちらの方が『矢竹』

ではないかと確信めいたものを感じましたので、単独で撮ってみました。

このブログで、植物なんかの名前が判らず、写真を載せて、教えを請っていた

時期がありました。

だいぶ、前ですが…。

そのクエスチョンにコメントで答えて頂いていました。

お蔭で、知る事ができた花々なんかもあります。

よく、答えて頂いた方は、ブログを既にされていませんが、あの頃は僕も

ブログを書くのが楽しかったですもんね。

毎日、更新していましたから。

今は…週一でノンビリ書かせて頂いています。

毎日、書こうという気力も体力もないというのが、本音ですけどね。

ちなみに、この矢竹がある場所は、縄張図には とあります。

ただ、今迄、講演などを聞いていると池の可能性もあるのだとか。

どちらにしろ、この城の水源になりうる場所である事には間違いなさそうです。

 

 池かもしれませんが、堀としての機能もあったのでしょう。

 

 

 

この堀もしくは池の反対側を除くと、石垣 がありましたが…これは

コンクリートの土台なのか?

ただ、そう決めつけられないのには理由があって、削平地がこの上にあるから

なんです。

 

 後世のモノと思いますが…ハッキリと言い切れません。

 

 

 

その削平地には、現在、心月庵と呼ばれるお堂が建っています。

この場所に、この城の 居館 があったとされています。

居館ってまぁまぁ広いイメージがありますが、小さな島の中にあるので

そこまで広いスペースではありません。

とはいうものの、一軒屋は建ちそうな、場所はあります。

従って、上に載せた石垣も、この居館の削平地を確保する為だったという

推測も立つ訳です。

 

 村上通康や来島通総もここに居たのでしょうか。

 

 

 

境内には、金木犀の花が満開でした。

ただ、言っておきますが、11月です。

普通、10月初旬~中旬頃に咲く花だと思っているのですが…。

 

 もっと暑い今年は、何時、咲くんやろうアセアセ

 

 

 

居館跡の北側には 切岸 があります。

この削平地を広げる為に、斜面を削ってできた切岸でしょう。

切岸の上部には曲輪があると縄張図にありましたが…よぉ~判らんかったもやもや

 

 木々が鬱蒼と生えそろっているので、地面は殆ど見えずアセアセ

 

 

 

この東側から、切岸上に登ろうと企てましたが、その尾根に登る手前に

石垣 の残骸が見られました。

それほど、大きくない石ですので、これまた怪しさ満点ではありますが

尾根上に畑跡とは窺えないので、往時のモノと思ってもいいかもしれません。

 

 ハッキリと言えないのが、心苦しい所であります。

 

 

 

ただ、見ている時は、『こんな所にもあるんじゃ!』と狂喜乱舞(言い過ぎ)

しながら、シャッターを押しまくっていました。

勿論、アングルも考えながらではありますが。

 

 前回は、全く見ていない場所っちゅう事もあるんですがてへぺろ

 

 

 

ここから東にある、出丸までは行こうと歩いていったのですが、真下から

覗くとこんな感じ。

とてもじゃないですが、登れんと判断したので、引き返しました。

 

 登れそうに見えますが…僕には無理でした。

 

 

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来島城レポその1はここまで。

次回も読んで頂ければ、幸いです。