1636th  竹林の七賢 | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国の三国時代の魏の末期において、酒を飲んだり、政談を行ったりと交遊した七人の総称です。

総称されていますが、実際に七人が同時に活動したことはありません。

比較的、阮籍が有名ですが、日本においては個々の人物についてはあまり知られていません。

日本では隠者と言われることがあり、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっています。

しかし、実際には多くは役職についていて、山濤と王戎のように宰相格の高官に登っている者もいます。

また、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する憤りとその意図を誤魔化すためのものであり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞されているようです。

ものごとに対する批判というのは一番簡単なことで、政府の政策に対して、ただ批判ばかりをしている政党の議員の発言を聞いていると嫌な気分になります。

今も事実上の選挙期間に入りましたから、野党の中には安倍政権の暴走とかなんとか刺激的な言葉を使って批判していますが、きちんとした対案を示しているところは少ないです。

また、理論武装が大好きな某政党は机上での対案を山のように用意していて自信満々ですが、僕から言わせれば実現性がないものばかりです。

実現性がない案は対案とは言えません。

自分で考え、自分で行動し、失敗も経験しながら、より良くするために意見を交換することは非常に重要なことですが、自分は傷つかないところにいて、批判だけして喜んでいる輩があまりにも多過ぎます。

ネット社会の最大の弊害とも言えますが、本質的には人としての性根の問題なのでしょう。

霊的修行者の場合、悪い意味での竹林の七賢になりたいと思う方がいらっしゃいます。

僕自身も批判はともかくとして、隠者のようになって世俗を絶って修行の世界に没頭したいと思うようなことがありました。

地上の人間であるにも関わらず、人間関係を絶って自分だけの世界で生きていきたいと思うのです。

しかし、それでは本当の意味での修行にはなりませんし、霊的な成長にも限界があります。

霊的な世界への興味が深まっていくとともに地上の現実からは目をそらしたくなるのは普通の心情だと思います。

ところが、霊的修行者であっても肉の身体と肉の脳を使って生きていくしかないのですし、そのことに大きな意味があるのだと思います。

なぜ、あまりにも尊い方々、特にキリストのような偉大な存在が、わざわざ肉を使って地上で活動されるのかという事実に鑑みれば、自ずと答えが出てくるはずです。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。 


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