随分前に書いた気がするのですが、僕には畏怖の念を抱くと言う経験がありません。
地上の人間は当然のこと、守護霊や指導霊、あるいは霊質界の上級霊魂やキリストや神霊に対する畏怖の念というものがないのです。
他の霊的修行者の方々やそうでなくても信仰心の強い方々を拝見していると神や仏など崇拝している存在に対しては、畏怖の念を抱いておられる方が少なくないように思いますが、何故かそのような感覚になったことがないのです。
畏怖の意味はおそれかしこまることですが、人が同じく地上に生きている他の人間におそれかしこまることなあるのでしょうか。
単純な恐怖であれば、肉に対する直接的間接的な危害が加わると思えば感じますが、おそれるほどかしこまるということがよく分かりません。
上級霊魂やキリストや神霊といった方々に対しては当然イメージは沸くのですが、実際にこの目で見たり、御声を聞いたり、したことがないので、どうしても畏怖を抱くという状態にならないのです。
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根が高慢過ぎてどうしようもないのではないかと思うこともありましたが、今はそれはそれで事実なのだからしょうがないと思っています。
先輩の霊的修行者の方の中には眉をひそめる方がおられるかも知れませんが、ならないものをならせようとして悩むほうが良くないと思ったのです。
僕は、何か理想を掲げてひたすら努力することは大切だと思っていますが、反面、あまりにもそのことだけにとらわれて思考が極端に硬直してしまうのも良くないと思っています。
地上の人間が生きていくのですから、どこかで折り合いをつけて妥協することも時には重要だと考えているのです。
もちろん、契約をし、修行に力を与えて頂いている方々への礼儀は極めて重要です。
そこには自然と感謝の念も生まれてくるでしょう。
しかし、それを超えた何かとなると人それぞれ感じることや思うことは異なると思います。
あるべき理想と人によって異なる個性は、相反する部分があるのかも知れませんが、結局その折り合いをつけて調整していくということも極めて重要な修行なのでしょう。
今のような激動の時代に思考の硬直化というのはとても危険なことだと個人的には思っています。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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