修行の成果なのかも知れませんが、人生で絶望的な気持ちになると言うことは、ここ10年以上ないような気がします。
不安感というものもほとんどありません。
もちろん、自分だけは何があっても助かるとか必ず幸福でいられるという気持ちがあるわけではありません。
肉の身体で生きる以上、日々の生活において満足感を得ると言うことはまずありませんが、まあそんなもんだろうという気持ちでいるのです。
ただ、毎日のように馬鹿馬鹿しいとは思います。
僕は自殺願望というものはありませんが、死ぬまではこの地上で生きていかなければならないという馬鹿馬鹿しさは言葉で表現することが出来ないほどです。
肉の維持には、労働が必要ですが、そのために肉自体が疲労し、精神は疲れ果てます。
特に、労働の現場に限らず、人との接触は煩わしくてしょうがありません。
いずれにしても、聖書による原罪とは男にとっては労働だというのは本当によく言ったもので、こんな下らないことのために時間と体力と精神の安定を全てつぎ込まなければならないのです。
原罪は人類共通の罪とは言え、まったくもって馬鹿なことをしたものだなあとつくづく思います。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、水波霊魂学 早わかり 、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊を知るために 、弁慶と弟子 、体験ー死後の世界 などをご覧になって頂ければと存じます。
僕の場合は、それでも霊魂学に出会え、神伝の法を実践することが出来、トオゥ・ライ・シェイにも参加させて頂けるのですから、リフレッシュすることが出来ます。
しかし、唯物論の方々は何が楽しくて、もだえ苦しみボロボロになりながら、どこまでいっても尽きることの無い欲望のために、生きておられるのだろうと思ってしまいます。
彼らからすれば、僕の感想など単なる負け犬の遠吠えということになるのでしょうが、その背負ったまま死ぬまで降ろすことが出来ない重荷を持ってどこへ行こうとされているのだろうと考えてしまうのです。
死というものを強く意識し始めた時に、彼らはどこに救いをもとめるのでしょうか。
そして、唯物論やそれに近い方向に人類が更に進んでいけば、そうではない人々も運命を共にしなければならないかも知れません。
人類全体にあまりにも重い霊的カルマがあるからです。
誰もがノアの箱舟に乗りたがっていますが、実際に乗っているのは泥舟です。
僕も地上の人である以上、泥舟に乗っているのでしょう。
しかし、ここまで霊的状況が悪化した地上で、肉の維持のために生きている馬鹿馬鹿しさを考えれば、泥舟に乗って一蓮托生で沈んでいくのもそんなに酷い話でもないと思います。
大きな意味では自分で蒔いた種ですから、自分で刈り取るしかないのです。
ある程度、霊的に目覚める人々が増えなければ、泥舟はいよいよ沈むだけでしょう。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
霊魂学をより多くの方々に知って頂くために、是非一日一回のクリックでのご協力をお願い致します。
↓