525th  カイジ | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

例によって人気漫画の映画化ですが、第一作をテレビでやっていたので録画しておいて、先日見ました。

映画版は漫画をかなりアレンジしてあるようです。

内容については詳しく書きませんが、この映画でとても印象に残ったシーンがありました。

クライマックスの場面で、相手の心理を読みあうゲームの最後に主人公が相手の人に言う言葉があります。

細かいせりふは覚えていませんが、次のような内容でした。

「もしあんたが俺のことを毒蛇に思えたならば、あんたが毒蛇ってことだ。人は、相手の心理を読もうとしながら、知らないうちに自分だったらどう考えるという思考にはまってしまうものだ。俺を毒蛇と思ったのならばあんた自身が毒蛇なんだよ。」

「下衆の勘繰り」という言葉もありますが、自分が相手の言動を計る場合には、絶対に自分の発想を超えることはありません。

自分自身の思考回路にないことは、そもそも考えとして浮かぶことがないのです。

だから、下衆は下衆な発想でものを考え、邪推するわけです。

このことは、誰もがわかっているようで、誰もわかっていないことだと僕は思っています。

他者のことなど何も分かるはずもないにも関わらず、人はほんのわずかな情報しかない中で、自分自身の色眼鏡で他者を見て、勝手な判断をします。

そのこと自体はやむを得ないことですし、どうしようもないことだと思いますが、大切なことは、人の思考というのはそういうものだということをきちんと認識しているかいないかという点です。。

認識が無い方は、いずれとんでもない方向へ飛んでいってしまいますし、いずれ必ず人間関係を悪くします。

霊的修行者がその罠に落ちてしまうとすぐに独善的になり、時を経ずして傲慢になってしまいます。
全て己に原因があるのです。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」)霊を知るために 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


そもそも人という霊的生命体は、勝手な主張をして地上に降り、苦しみに耐え切れず神に祈り、救いのために地上に降りて下さったキリストを忌み嫌い、蔑み、挙句の果てに処刑するような存在です。

どんなに否定しようとも地上の人間には本質的にそのような要素が誰にでもあるのです。

しかし、なぜか神霊につながるような尊い光も奥に秘めているのです。

自由意思が与えられた人という存在は、動物になってしまったことにより動物の本質に染まり、いつしか下層幽界だの地獄だのというおぞましい世界を自らの手で作ってしまいました。

そして、人類の歴史は、ほとんどの方がせっかく地上に再生され、霊的進歩向上のチャンスを得たのに、短い人生を終えた後、下層幽界に入ってしまうという地上の状況を作ってしまいました。

それでも、今地上で生きている以上、誰にでもチャンスはあります。

霊的に目覚めるチャンスが訪れた時、その言葉を己の中にある蛇の心で聞けば蛇に導かれ、己の中にある尊い光の声に素直に耳を傾ければ、神霊へとつながることが出来るのかも知れません。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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