人間にはなぜ残虐性が備わっているのだろうかとふと思うことがあります。
霊魂学的な視点からの答は何となく想像出来ているのですが、現実的にその残虐性を目の当たりにすると何とも複雑な気持ちになります。
人という霊的生命体は、地上に再生されれば自己保存が最優先されるにも関わらず、時折自己の命までを犠牲にして他者を助けるということがあるからです。
そこにこそ、神霊につながる輝きが見出せるのかも知れませんが、それは稀なことです。
しかし、それも人の本質の一つだとすると、時折垣間見ることがある残虐性が同時に人間に備わっているものだとは信じられないのです。
何度も書いていますが、人が幽質界にいて、地上に降りる前は、残虐性など無かったと思われます。
当時は、幽質界と言えば、上層あるいは上級幽界しかなかったはずですから、残虐性が表れるケースが考えられないからです。
身体を維持するために食べたり、そのために働いたり、眠ったりする必要などなく、ほとんどの願いは叶ってしまうのです。
己のビジュアルを変えることも出来ますし、何かを手に入れるのにお金の必要などなく、住む家も必要なく、それでいて自由気ままに生活しているのですから、どこで残虐性を発揮するところがあるのでしょうか。
人は、地上に降りて、動物の肉の身体を着ることになりました。
地上の動物は、動物か植物かその両方かの生命を奪い、それを食べることでしか肉を維持することが出来ません。
考えてみれば恐ろしい存在なのです。
一部の宗教には動物は食べては駄目だから野菜のみを食べなさいというルールがあるところがあるようですが、植物にも命がありますし、感情があることも科学的に証明されているようです。
動物を食べることが残酷で、植物を食べることが残酷ではないとは言い切れないのです。
いずれにしても、人は、他者の生命を奪って己の生命を維持する存在になってしまったために、残虐性が備わったのでしょう。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊を知るために 、弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。
つくづく自由意思は恐ろしいものだと思わされます。
もちろん、神霊や高級霊魂の方々はそうなるのが分かっているからこそ、人が地上に降りることに強く反対されたのだと思いますが、なぜか、自由意思は神霊の忠告さえも拒絶できる権限を持っているのです。
自由意思があるからこそ貴い自己犠牲の行為も生まれるのですから、そこには肉の脳では決して理解することが出来ない秘密が隠されているのだと思います。
その秘密を知ることは同時に自分の正体を知ることにもつながるはずです。
幽で、いや霊で、いや神の身体を持つまではわからないかも知れませんが。
もし、あなたがその秘密を知りたいと思われれば、禊法や鎮魂法があなたを案内してくれるでしょう。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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