昨日は、精神的なストレスが必ずしも霊的なことと関係があるわけではないということを書きましたが、当然のことながら、良い精神状態ではない時に霊的トレーニング を行なってもあまり良い効果は期待出来ないようです。
霊的トレーニング は出来、不出来があるようですが、それは自分では分かりません。
しかし、何となくあまり良くないと感じているのです。
修行と言うのは、緊張し過ぎず、リラックスし過ぎず、行ずることが良いそうなので、あまりにも精神的な状態が良くなければ、やはり良いことはないのでしょう。
肉体の疲労に関しては、師が著書などで仰っておられるように、マイナス要因になるようです。
肉体に関しては、疲労だけでなく、苦痛が伴ったりすると、気持ちが肉体の感覚に向いてしまって、霊的な修行には良い影響を与えないようなのです。
何度も書いていますが、世の中で修行というと想像される苦行というのは、霊的には非常にマイナスで、あまり良い効果は期待出来ません。
なぜ、苦行をすることが修行として認知されてしまっているのか不思議に感じるのですが、苦行でないとやったという達成感が得られないのかも知れません。
また、どうやら肉体レベルの心を強くすることが、霊的にレベルが高くなるという世間の大きな誤解があるために、苦行に耐えることにより、強い精神が育ち、霊的にも高くなると思われてしまっているのでしょう。
しかし、残念ながら、これらは全て誤解です。
理想的な修行はどのようなものか、僕自身掴めていませんが、修行に関わって下さる霊魂への礼節と真剣な思いということは不可欠な要素のようです。
そこには、物質界レベルの精神論というものは一切ありません。
さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学 、霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」) 、霊を知るために 、弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。
霊的修行者として、しばらく経つと肉体の脆弱さに嫌気が差す場合があるようです。
僕や他の方の経験上、肉はメンテナンスが必要ですから、面倒臭いなあと感じることがあります。
それが、場合によっては、もう肉なんか着ていたくないという思いにつながることもあります。
僕個人に関して申し上げれば、自殺願望というよりも、肉に縛られた生活が馬鹿馬鹿しくなるのです。
精神的にも肉体的にも疲労がピークにあるとそのように感じてしまうのかも知れません。
昔、昔、ある霊能力者が24時間、某新興宗教の祝詞のようなものを唱え続けたら、神が降りてきたという話を聞いたことがありますが、僕にはどうしても事実として受け入れることが出来ませんでした。
なぜ、神が苦行を求めるのかが不思議だったからです。
確かに、それに耐えるということによって真剣な気持ちの一つの証明にはなるかも知れませんが、ただ単に意味がないことだと感じてしまったのです。
いずれにしても、ちゃんとした師につかない独学の修行は極めて危険ですし、霊的に高い空間で行なわないと一般的には危険だと言えます。
肉体の疲労も場合によっては、邪霊や未熟な霊魂につきこまれる隙を与えることになってしまうのです。
大切なことは唯ひとつ・・・・・。
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