403th  生かされているはずもなく | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

師も著書で書かれておられるように僕も「生かされている」という言葉が好きではありません。

宗教家や信仰心の強い方がよく使われる言葉ですが、そこには自分が中心であってそれを神仏が守ってくれているという自負の思いが溢れているからです。

大儀や正義という言葉を振り回す方も同様ですが、その方は、ご自身の単なる個人的な意見を大儀だとか正義だとか仰っているわけですから、そこには、ご自身の意見だけが正しいのだと言う強い自負が現れています。


自分の人生においては確かに自分自身が主人公なのですが、世の中の主人公ではありません。

地上の人間は、幽質界という神質界や霊質界よりも下の世界を本来の住処とする霊魂であり、原罪があり、霊的進歩向上の半ばであるために、複雑な仕組みによって、何度も再生を繰り返している存在に過ぎません。

未熟であるが故に、地上に降りてから1万1千年もたったのに、同じ過ちを何度も何十回も繰り返した挙句、また再生されて、今度はいよいよ下層幽界や地獄に落ちてしまうかも知れないという危険の中で、今、物質界で極めて物質的に生きているだけなのです。

要するに勝手に生まれて、勝手に死んで、地上で霊的目覚めることがなければ、本来の住処よりもはるかに苦悩が溢れている世界に落ちていっているだけのことなのです。


こうなると真の不幸を手に入れるために生きているわけであって、生かされているわけなどありません。

もし、生かされているということが本当であれば、それは地獄に落とすために生かしてやっているという話になってしまいます。

神や仏がそのような恐ろしいことを強いるはずもなく、至上の神がその存在すら知らない地上の一個人に関与して、生かすだの生かさないだのと操作をしているはずなどないのです。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊魂通信(「霊魂イエス」「ムーの大神人」)霊を知るために 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


霊魂学が正しいという前提に立てば、真の幸せを手に入れるためには、人類に自由意思などという恐ろしい権利など認めずに、強制的にでも霊的に進歩向上するようにしてくれれば良いのにと思うのですが、何故か残酷なことに人という霊的生命体には自由意思が認められていて、真の不幸を手に入れる自由が許されているのです。

その結果、物質界で生きることを許された人類は、当然の如く、不幸になる自由を謳歌し、地獄などというものを勝手に作って、みんなでどんどん落ちていっているのです。


人は、生かされているなどと傲慢になるのではなく、シンプルに何のために生きているのかを考え、そして寿命もあれば事故も災害もあるのだから、いつ死ぬか分からないという当たり前のことを自覚して、地上での極めて短い生活において、何をすべきなのかを考えるというが大切だと僕は思います。

霊魂学の主張は、人は好きなように地上で生きれば良いけれども、日々霊的トレーニング を行い、定期的にトオゥ・ライ・シェイなどの霊的に高い空間に身を置いて、常に自分を見つめ直し改善する努力をして下さいというものです。

それは、人生の多くの時間を奪うものでもないし、物質的な生活を阻害するものでもありません。

肉を着ている以上、肉の維持は重要だと言う前提のもとで、現代人の生活にフィットするように作られているシステムなのです。

しかし、誰も実践しません。

よって、間もなくその結果が出るようです。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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